13

「ユナ」
 ようやく名前を呼ぶと、ユナは少しだけ笑ったようだった。目を閉じて、それきりぴくりとも動かなくなる。反射的に揺さぶりたくなる衝動をこらえて、影二は慎重にユナを抱き起こした。力が抜けた彼女の体は柔らかい。ともすれば腕の中から零れ落ちてしまうのではないかと不安を掻き立てられるほど。
(これが……)
 おのれの選択か。と、後悔しかけてかぶりを振る。元よりユナは犯罪組織の構成員で、いつ死ぬとも知れない境遇ではあった。彼女に限らず、この場に転がっている死体のすべては犯罪者になってでも人並みに生きる道を選んだ者たちだ。自業自得、とも言える――けれど。胸の内で呟いてみたところで、肩が震えるほどの寒気は止められなかった。
「オレに、なにを期待したというのだ」
 意識のないユナを抱えたまま、影二は呻いた。
 クリスマスからおよそ三ヶ月。いや、もう四ヶ月近くになるだろうか。修行の傍ら、風の噂にハワード・コネクションの動向は聞いていた。里の者をやって様子を探らせていたのも同じくらいの期間だ。彼らの言うところのローカルマフィア。つまり極道者と揉めている様子だと知ってもすぐに動くことができなかったのは、如月流の体面云々というより単純につまらない意地だった。
 ――投げ捨てたものを、わざわざ拾いに戻るのか。馬鹿げている。
 そもそも探らせたのが間違いだった、と思わないではなかった。一方的に与えたつもりでいて、実のところユナと過ごす時間が嫌いではなかったのだ――と、気付いたのはひとりになってすぐだ。二人きりの食卓。夜眠るまでの他愛ないひととき。穏やかな朝。どれも忍びには不要のものだと高をくくっていたが。
 なにかを察したのか、里の者は報告を怠らなかった。ある種の根気比べで、先に折れたのは影二の方だ。ユナをとりまく状況は刻一刻と深刻化していた。彼女に甘いビリー・カーンは、サウスタウンを離れられない。草薙京や麻宮アテナも頼れない、というよりユナの方から意図的に交流を絶っている。
 ――二度と会わないつもりでユナの傍を離れたのだ。仮にユナが死んだところで、変わりはない。クリスマスのように偶然に遭遇する可能性がまったくなくなるというだけで。
 自分に言い聞かせるつもりで、それが決め手になってしまったというのは馬鹿げた話だ。
(結局、間に合いはしなかったが……)
 息を吐く。深く。それから、息を吸う。これも深く。思いのほか動転していることを自覚していた。何度かそれを繰り返して冷静さを取り戻すと、影二は改めて腕の中のユナを見下ろした。切創や打撲はともかく、左腕が折れてすでに腫れ上がっている。転倒した際の打ち所が悪かった上に、乱暴に殴りつけられたせいだろう。
 血で額に張り付いた前髪を掻き上げてやりながら、影二は立ち上がった。
「……目を離すと、すぐにこれだ。お前は」
 呟きが、夜に虚しく散っていく。次の瞬間にはユナを抱えた影二の姿は闇に消え、あとには物言わぬ骸と争いの痕跡だけが吹きさらされていた。

 物心ついたときにはもう、おのれの立場を弁えていた。
 などと言えば、養父は苦笑いするだろうか。影二が如月の血を引いていないと教えられたのは成人してからだが、以前からなんとなく身の置き場がないと感じることはあった。胸のうちにあった漠然としたものが確信に変わってからは、とにかく足りないものを埋めるため必死だったような気もする。顔も知らない家族への思慕というより、矜持の問題だ。人より優れている自覚があったからこそ、人が当たり前のように持っているものを自分だけが持っていない事実は耐えがたかった――
 眠るユナの顔を見ていたら、そんな自分を思い出した。
 傷付いたユナを抱えて飛び込んだのは、ゲーニッツとの闘いで世話になった小さな診療所だ。老医師は素性の知れない異郷人が運ばれてきたことに顔色のひとつも変えず、治療をするからと影二を診察室から追い出した。中で一度目を覚ましたようだが、治療後にベッドへ移されてからは再び目を閉じて今も眠り続けている。
 なにができるわけでもない。ただ待つだけの時間が酷くもどかしい。
(おのれは半年も待たせたくせに、な……)
 自嘲とともに息を吐き、影二は手を伸ばした。清潔なシーツの上に投げ出されたユナの手に、指先でそろりと触れる。と、
「えいじ」
 ほとんど吐息同然に、囁きが聞こえてきた。
 その声にどきりとして影二は視線を上げた――指先はそのまま。気まずさと秤にかけても、今は触れていたい気分だった――目が合う。ユナはゆっくりまばたきをすると、唇を開いた。
「……目を覚ましたらね、もういないかなって思ったんだ」
 怪我の痛みが障るのかもしれない。一度言葉を切って、
「なんで、帰ってきたの?」
 声に責める響きはなかった。そのせいで真意を読めずに、影二は少しだけたじろいだ。
「お前が、待っていると」
 思ったのだ――というのは、正確ではなかったが。
「なんで待ってると思ったの?」
 また訊き返してくる。
 声は穏やかで、かえって落ち着かない。
「オレより」
「え?」
「オレより、良い男はおらぬだろう」
 苦し紛れにしても、酷い言いざまだった。ユナもぽかんと口を開けている。どれだけ間抜けに見つめ合っていただろう。ややあって、
「そうだね」
 と、一言。
 いっそうばつが悪くなって、影二は嘆息した。
「……世辞はよせ」
「お世辞じゃないよ」
「ならば、なお悪い」
「きっとみんな、そう言うんだろうね」
 ユナは少し笑った。
「好きになった方が負けだって言うじゃん。わたし、どうしようもなく負けたんだよ。怒ってなかったって言ったら嘘になるし、諦めたつもりでもあったんだけどさ。影二の顔見たら、なんていうか――」
 一拍の間を挟んで、躊躇する。影二は無意識のうちに、指に力を込めていた。その瞬間、初めて触れられていたことに気付いたようにユナが目を細めた。あるいはそれで腹が決まったとでもいうふうに、泣き笑いのような表情で告げてくる。
「好きだなって。それだけになっちゃう」
 何度目かになる告白は、独白にも似ていた。
「だから、今度はちゃんと振ってよ。もう助けに来ないでよ。優しくされるたびに期待しちゃうけど、だからといってなにが変わるわけでもなし……終わりがないのは苦しいよ」
 呟いたきり、もう顔も上げない。
 ユナを見つめたまま、影二は呻いた。
「好きになった方が負けか。お前のその理屈でいくと、オレはなにも言えなくなる」
「いつも言わないじゃん」
 そんなふうに話の腰を折るところだけは変わらない。
「手厳しいな」
 もっとも、事実ではあるのだろう。
「……帰ってきたのは、惚れた弱みだ」
 最初の問いかけに対する答えだ。酷く痛いところを突かれた心地で、影二は苦く吐き出した。とはいえ苦いと感じたのは言葉を舌先にのせた瞬間だけで、口に出してしまえば酩酊するような甘さに変わりもしたが。
 ユナは俯いたまま目を丸くしている。思いも寄らない言葉を耳にした、という顔だった。
「意外か?」
「だ、だって」
「他にどんな理由がある。出鱈目な理由でお前を引き留め、妙な約束で期待までさせて――散々に振り回したくせに、面と向かって終わりを告げろと言われた今になって悪足掻きを始めた。この体たらくに……」
 それを認めるまでに、随分時間がかかってしまった。
「ゲーニッツに、柴舟と二人がかりでも歯が立たなかった事実に腹が立った。恋だの愛だのにうつつを抜かして、使命を見失っていたのだと頭に血が上った」
「言ってくれればよかったのに」
「言えば、お前はあっさり諦めただろう。これまで諦めてきた有象無象と同じように」
 露骨な言い方をしたつもりだったが、ユナには伝わらなかったようだ。珍しく察し悪く、硬直したまま見つめてくる。その青い瞳を、影二は真っ直ぐ見つめ返した。
「オレは如月流の名にかけて強くなる。だが、お前もほしい。どちらも、誰にも譲らん」
 口に出してしまえば、なんとも呆気ない。なんとも簡単な一言だった。ユナはぽかんと口を開けていたが、今度は意味を呑み込んだようだ。
「うそ……」
「ではないが、信用に関してはなにも言えん」
 肩をすくめる影二に、堰を切ったようにまくし立ててくる――痛みに顔をしかめながら。
「だって……約束、守ってもらえなくて悲しかった!」
「ああ」
「告白の返事も、クリスマスも」
「ああ」
「クリスマス、ひとりで過ごしたんだよ」
「ああ」
「影二が誕生日お祝いさせてくれるって言ったから、プレゼントも用意してたのに」
「ああ」
「吹っ切るつもりで教会に行って、知らない神父さんにあげちゃった」
 ユナは項垂れた。長い襟足も胸の前にだらりと垂れて、落ち込んでいるように見える。
「あ……いや」
 彼女の言葉はすべて受け止めるつもりでいた影二は、それにもつい頷きそうになって――慌てて首を左右に振った。懐を探る。指先に包みが触れた。あの日は紙の感触も冷たく感じたが、今はなんとなくあたたかい。
「箸置きならば、ここにある」
 ユナの目の前に差し出す。
「え?」
 虚を突かれた顔をしている彼女に上手い言い訳も思いつかず、影二は素直に白状した。
「……オレだ」
「どういうこと?」
「あの日、あの場所にいたのは」
「なにソレ。ナンデ」
 疑問ばかり繰り返すユナを見ているうちに楽しくなってしまって、影二は肩を揺らした。
「運命的だと言うのだろうな、気の利いた男は。そして気取った男は、必然だと言う」
「じゃあ、影二だったらナンテ言うの」
「そういうものなのだろう、としか。気の利かない、気取れもしない男で悪かったな」
「ううん。影二らしいよ」
「と、お前なら言うのだろうと思ってはいたが……」
 自分の狡さも手の内もすべて明かしてしまえば、それで終わりだった。疑問は途切れ、あとにはユナの穏やかなまなざしだけが残っている。
 影二の手を取ると、ユナは小さくはにかんだ。遠慮がちに指先を絡めてくる、その手を影二ももう振り払ったりはしなかった。
「ねえ、影二。気持ちは分かったけどさ、もうちょっと確かな言葉もほしいな」
 甘えるように語尾をわずかに上げる。そんなユナに、影二は苦笑いで頷いた。
「二度と傍を離れぬとは言わん。修行で何ヶ月も空けることもあれば、如月流次期頭目としての責もある。忍びとして生きる以上、畳の上で死ねるとも限らぬ」
 気の利かない言葉を、彼女は黙って聞いている。
「だが、心はお前のものだ。常に」
 気恥ずかしさを誤魔化すようにずいと顔を寄せ、影二は早口で続けた。
「なにかと気を揉ませた侘びだ。お前の言うヒーロー風に話を締めくくるとしよう」
 実を言えば、彼女が言うところのコミックブックについてそう多くを知っているわけではなかったが――古今東西の英雄譚とそう変わりはしないだろうと当て込んで、目の前の唇に噛み付く。ほとんど衝動的に。獣のように。軽く歯形のついた下唇を吸って口腔に舌を割り込ませる。怯えた熱が心地よい。鼻から抜けていく吐息も、頼りなげに震える睫毛も。
「あ、あの、あのね、影二」
 離してやると、ユナは白い喉を上下させながら切れ切れに声を絞り出した。
「ヒーローのキスは、もっと、優しいんじゃ、ない?」
 そんな色気のない感想も、彼女らしい。
「そうか」
 鼻を慣らして、今度はそっと触れるだけの口付けを交わす。一瞬で離れていく感触に、それがヒーローというものならば自分の性には合わないなと思いながら、影二はじっとユナを見た――見つめるというよりは無遠慮に、けれど眺めるというよりは優しげに――目が合うと、彼女はパッと顔を赤らめた。
「わたし、影二のこと、すごく好き」
「知っている。分別のつかぬ小童でも、もう少しは好意を隠すだろうに」
「加減が分からないんだよ。こんなこと、今までなかったから……」
「ああ」
 その言葉の意味は痛いほどに分かる。
 ユナも、そして自分も、まるでひとりでに生まれ出でもしたかのように気付けば他人の中にいた。愛情どころか信頼さえ無償ではない場所で、いつだって自分の存在意義を証明し続けてきたのだ。
「だから、手放せなくなった」
 それは身勝手な告白だった。乱暴な口付けと合わせて、勝手すぎるほどだった。いくらかは申し訳ないような心地で、指先をユナの目尻に這わせた。色素の薄い青の瞳は空の見えない室内でさえ、照明にあてられてきらきらと輝いている。
 思えば――なにかしらの想いを自覚するよりずっと前から、彼女の瞳にだけは弱かった。
(それが始まりだったのやもしれんな)
 口には出さずひとりごちて、おのれの額をユナの額に押しあてる。こつんと小さく響いた音は、どこまでも胸に沁みた。



END




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