11

 夜中に。
 目が覚めた。なにかの気配を感じたというわけではなく、ただなんとなく。ユナ・ナンシィ・オーエンは何度か瞬きを繰り返すとベッドから起き上がった。喉がからからに渇いている。冷たい床に足を下ろして身震いしながら、キッチンで水を汲んで喉の奥に流し込んだ。

 ゲーニッツの襲撃から、およそ二ヵ月。

 ギースの沙汰はとうに下って、ユナは引き続き日本での活動を命じられている。神楽財閥がオロチの封印を守っているという報告を受け、ギースは日本に活動拠点のひとつを置こうと決めたようだ。ひとまずハワード・コネクション傘下の企業のそのまた傘下……といった繋がりの薄い研究施設に白羽の矢を立て、大胆にも神楽財閥の目と鼻の先で研究都市の建設を進めさせている。
 名目は新エネルギーの開発だ。拠点の完成後はユナもひとまず研究員の肩書きでサウスタウンから送り込まれてくる同僚たちと合流する手筈だ。といってもビリーは信頼のおける部下を少なからず失っているため、縁の薄い者が多くなりそうなことが難点だった。ギース直属なり、他の幹部なり、折り合いが悪いとまでは言わないもののやはりいくらかはやりにくい。
 悩みの種は他にもあった。
 土地の買い上げがあまりに急だったため、疑念を抱いた地元の反社会的勢力と小競り合いが起きている。日中は交渉のためあちこち駆けずり回り、夜はビリーへの報告――一日が、一週間が、一ヵ月が、あっという間に過ぎていく。
 それでも。
 街の装いが変われば、意識せざるをえない。どこへ行っても赤と緑の装飾とクリスマス・ソングは付いてまわる。今日は二十五日。クリスマス。そして、
「影二の誕生日」
 口に出してから、ユナは後悔した。
(日付が変わってすぐにおめでとうって言ってさ。一緒に買い物に行って、あったかくしたこの部屋に料理を並べて、二人でパーティーして、誕生日プレゼントを渡せたらいいな……なんて。確かに分不相応だったのかもしれないけど……)
 守られなかった約束と現実の落差が襲ってくる。影二の荷物はクローゼットの奥に全部押し込んで、ソファも捨てた。傍目には簡易ベッドだけが辛うじてあるような、暗い部屋だ。料理は二ヶ月前からほとんど作っていない。祝うべき影二の姿もない。プレゼントだけは用意していないこともないが、今となっては未練の象徴でしかない。
「……しばらく事務所に詰めさせてもらった方がよさそうかな」
 ユナはそっと溜息を零した。
 建設の規模が大きいだけに現場事務所もそれなりの広さがある。一部屋くらいなら借りられないこともないだろう。
 そうと決めたら寝直す気にもなれなくなってしまった。少し外の空気でも吸ってこようかと、着替えてコートを掴む。迷った末に財布の中から紙幣を抜いて、そのままポケットに突っ込んだ。

 外の空気はさすがに冷たかった。
 白い息が空に溶け込んでいくのを眺めながら、夜の静寂に足音が響いてしまわないよう慎重に歩く。目的があったわけではなかったが、なんとなく頭に浮かんだ場所はあった。郊外でちらりと見た、古い教会。サウスタウンの教会を思い起こさせる寂れた佇まいで、人がいるのかも怪しい。ただ、庭の草木は丁寧に刈られていた覚えがある。
 クリスマスには苦い思い出が多いが、教会は別だ。この時期はシスターが炊き出しをして貧しい人にパンとスープを配った。日頃から軽微な犯罪を繰り返していたスラム街の子供たちにも――思えば、それは幼い頃に体験した唯一の平等なのかもしれない。
 記憶を頼りに一時間ほど行くと、ようやく小さな建物が見えた。煉瓦造りの塀はすっかり色褪せて、門扉もない。いくらか躊躇いながら敷地に入ると、以前見たとおり整えられた庭があった。背の低い樅の木にベツレヘムの星が飾られ、ささやかにクリスマスを祝っている。その横を通り過ぎ、ユナは教会の入り口に立った。誰もいないだろうなと思いつつも、手の甲で一度、二度、木の扉を叩いてみる――
 予想に反して、返事はあった。
「こんな時間に、どうしました?」
 中から顔を出したのは、年老いたシスターだった。いかにもすぎて笑えもしない。ユナは顔を引きつらせながら、言葉を探した。
「エエト……夜中にごめんなさい。前にこの教会を見かけて、故郷のことを思い出したから……って、こんな時間に来る理由にはならないけど。眠れなくて、お祈りさせてもらってもいいかな」
 不審な顔をされるかと思ったが老シスターは慣れた顔で頷いた。
「外は寒いでしょう。中へどうぞ」
 促されるまま中へ入る。
 といっても、礼拝堂も然程あたたかくはない。外気に触れない分、ましという程度だ。その上、あちこち酷く古びている。だが不快さはなかった。手入れ油で丁寧に磨かれた古木の香りが、どこか懐かしい。正面には十字架に磔られたイエス・キリストの像と簡素な燭台があった。
「蝋燭、立てても?」
 老シスターが頷くのを確認して、コートのポケットから紙幣を掴んで渡す。蝋燭代には多すぎると困惑したシスターに、祈りたいから少しひとりにしてほしいと頼み込んだ。隣の管理小屋にいるから帰るときには声をかけるようにと言って出ていった彼女を見送り、燭台に火を灯す。
「天にまします我らの父よ――」
 両手を組み合わせたまま声を途切れさせたのは、続く言葉が思い出せなかったからだ。
「……お祈りの言葉くらい、さっきのシスターに聞いておけばよかったね」
 ものを言わないキリストの像に、そう話しかけて。
「神様も暇じゃないとは思うんだけど……」
 自分でも誰に話しかけているのか分からないまま――口を開いてしまえば、相手がいないことも気にならなくなってくる。
「こういうの、他に話せる相手もいないから聞いてくれないかな。子供の頃から、ずっと足下に線が見えてたんだよ。生まれがどうこうって話じゃなくて……どうしてかわたしだけが超えられない理不尽な線。今年こそはって一瞬だけ期待したけど、やっぱり向こう側には行けなかった」
 ユナは湿っぽくなった雰囲気を振り払うように、顔の前で軽く手を振った。
「いや別に愚痴りにきたってわけじゃなくて、そのことはもういいんだ。いつまでもないものねだりしてられないから。それより、神様の前で終わりにしちゃえば少しはすっきりするのかなって。そっちのことの方がよっぽと切実でさ。わたし、すごく好きな人がいて……まあ、歯牙にもかけてもらえなかったわけだけど――」
 陰鬱にうめいて。
 ふと感じた気配に、続く言葉を呑み込んだ。老シスターが戻ってきたのかと、振り返る。背後に佇んでいたのは、フードを目深にかぶった神父だった。
「あー……エット、シスターさんから聞いてないかな。お祈りしたら、出てくから……」
 言外にひとりにしてくれと頼んだつもりだったが、神父はその場から動かない。真夜中に訪ねてくるような不審者をひとりにできないということだろう。ユナは嘆息した。
(ほんっと、どこまでもツイてないっていうか)
 こんなことならさっさと済ませてしまえばよかったと思いながら、さすがに神父の前で続きを話す気にはなれなかった。祈るふりで誤魔化し、もう一度彼を振り返る。
「こんな夜更けに、お邪魔しました」
 神父は答えなかったが、花を一輪差し出してきた。真っ白な百合だ。
「……ありがと」
 短く礼を言うと、ユナはポケットに片手を突っ込んだ。指先に小さな包みが触れる。
 未練と一緒に捨ててしまおうと持ち出した――
「よかったら使って。プレゼントだったんだけど、なんていうかうまくいかなくてさ」
 丁寧にラッピングされたそれを神父の掌に押しつけ、逃げるように駆け出す。

 ***

 話は二ヶ月前に遡る。
 ゲーニッツに敗れ、影二は闘いの場を後にした。致命傷ではなかったとはいえ当然そのままにしておくわけにもいかず、さりとて柴舟や――ゲーニッツと闘って怪我を負うであろう知人たちが運び込まれそうな病院で治療を受けるわけにもいかず、個人の診療所で世話になったのだ。腕が完治するまでの、およそ二週間。年老いた医師とその妻は最初こそ不審がったものの、同じ年頃の孫がいるからと随分親切にしてくれた。
 その礼を、と言うと医師の妻は笑顔で言ったのだ。
 ――クリスマスの日だけ教会の仕事を手伝っていただけませんか。
 聞けば知人の遺志を継いで管理しているとのことで、クリスマスの前後だけ礼拝客を受け入れているという話であった。人もほとんど訪れないような施設だが、聖夜になにかしらの目的を持ってやってきたような人くらいは救いたいと十数年続けてきたのだという。
 確かに老夫婦の歳では寒い教会で一晩過ごすのは骨であろう、と影二はその頼みを二つ返事で了承した。聖書の文句などひとつも知らないが、黙って話を聞いてやればいいと言われていたのでそうするつもりだった――が。
 こんな二晩程度のボランティアで、ユナと遭遇するとは。
 小さな包みを握りしめたまま、影二はフードの下でひっそり息を吐いた。礼拝堂の静寂に響いていたユナの声が、耳の奥に残っている。上滑りした明るさの中に、別れへの決意があった。奇しくもそれを聞く羽目になったことに動揺して、思わず遮ってしまったが。
(……言わせてやるべきだった)
 今更苦いものが込み上げてくる。言うまでもなく、こちらは別れすら告げず姿を消した身だ。いつまでも引きずってくれというのは、それこそ勝手でしかない。煮え切らない感情をどうしようもなく持て余しながら、影二は手の中にちらりと視線を落とした。
「…………」
 誕生日プレゼントだ。投げ捨てたはずのものがいつの間にか手元に戻ってきたような、奇妙な心地で包みを開く。中には錫製の箸置きがひとつ。透かし彫りにされた梅の模様が美しい。
(好みを、よく分かっている)
 愛されたものだと自嘲しかけて、ふと気付く。出会ったばかりの頃、ユナと胸のうちにある空白の話をしたことがあった。特殊な境遇に育った自分たちにとって、愛情は正体不明の化け物にも等しいのだと嘆いた――あの日から一年も経っていないというのに。
(冗談でも愛を語るようになるとは……)
 忌々しさに舌打ちをすると、影二は箸置きを懐にしまった。どうしても、投げ捨ててしまうことはできなかった。




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