10

 如月影二がその電話を取ったのは、ある種の予感を覚えたからだった。またビリー・カーンが彼の部下に替わるよう強く言わなかったのは、彼女が口で言っても聞きはしないことを知っていたからに違いなかった。
 つまり、サウスタウンでゲーニッツを追っていたハワード・コネクションの構成員たちが無惨に殺された件だ。事件の知らせを元チームメイトから聞いたとき、影二は動揺する自分を自覚した。有象無象の死を悼むような繊細さは、もっと精神的に未成熟だった十代の頃でさえ持ち合わせてはいなかったが。
(少なくとも合流まではもつと踏んで接触を許したのだろうに……)
 それがあっという間に壊滅したとなれば、ユナ程度ではまったく歯が立たない。足手まといになる暇もない。一瞬のうちに殺される。懸念したのはそういうことだ。ビリーも同様のことを思ったのかもしれない。慌ただしい中、すぐに作戦の中止を連絡してきたというのは。
「過保護なやつめ」
 毒づきつつ、影二はユナの顔を覗き込んだ。
 ビリーの連絡を受けてから慌てて焚いた沈香の効果は、幸い間に合ったようだ。副作用を伴う強いものではないものの忍びの間では古くから使われる代物で、慣れない者はしばらく目を覚まさない。ソファの上でうつらうつらしている彼女の眠りがほんの一瞬でも穏やかなものに変わるよう――祈りというほど切実なものではなく――念じながら眉間に指先を這わせ、
「ユナ」
 名を、呼んでみる。ユナはぴくりと目蓋を動かして、懸命に目覚めようとしているようにも見えた。そんな彼女に休んでいるよう囁くと、影二はソファから離れた。
「さて、行くか」
 感傷的になりそうな場面でも、すぐに割り切ってしまうのはもう習慣のようなものだった。部下たちの死を悼みながらもビリーが滞りなく事後処理を済ませるのと同じだ。心がなにを感じていても、体は優先順位を違えない。素質というほど大層なものではなく、単純に経験と繰り返しがそうさせる。ある種の惰性、とも呼べる。
 それでもいくらかは後ろ髪を引かれる心地で、影二はベランダから出て行く前にもう一度だけ部屋の中を振り返った。見慣れた空間。そこにある見慣れた存在がひどく寂しそうに見えるのは目の錯覚か、そうあってほしいという願望に過ぎないのだろう。
(なんともまあ腑抜けたことだ)
 自嘲気味に鼻を鳴らし――残り香を消すため、窓は薄く開けたまま――そこから飛び降りる。おあつらえ向きに月のない夜だ。薄い雲が空を覆って、夜の闇にいっそう陰を落としていた。
「よい夜だ」
「いや、そうとも言えんぞ」
 影二の独り言に応える声があった。
「草薙柴舟」
 誰何するまでもない。暗がりに向かって声を投げると、その瞬間に闇夜がぱっと明るくなった。車のヘッドライトだ。強い光に目を灼かれるような心地で影二はわずかに後じさり、懐に手を滑り込ませた。視界が戻るまでの数秒程度なら苦無の一本で凌げる自信はある。が、
「旅は道連れ。空港へ行くつもりなら、乗せてやらぬでもないぞ?」
「なに?」
「新聞屋――いや神楽の娘からのタレコミでな。ワシの目的も、貴様と同じじゃ」
 カーウィンドウから身を乗り出し、ニィッと笑っている。その頃にはもう目も眩しさに慣れていたため、柴舟の表情ははっきり見えた。格闘家の顔だ。そこに息子を案じる親の情がまったく含まれていないということもなかったが、指摘するのは互いに体裁が悪い。
 影二は素知らぬふりで頷いた。
「なるほど、ではその言葉に甘えるとしよう」
 柴舟の方も、それ以上はなにも言わず黙って隣を示すのみである。
 影二が乗り込むと同時に、車は暗闇を滑るように走り出した。柴舟の運転は思いのほか丁寧だ。意外に思いながら、影二は窓越しに映る彼を慎重に眺めた。
(まさか、闘いを前に緊張しているということもあるまいな)
 このジジイに限って、と声には出さず呟く。実際、柴舟はいつもどおりだった。厳めしい顔つきに似合わない飄々とした態度で、口笛など吹いている。
(……やれやれ。落ち着きがないのは、オレの方か)
 彼を見て、影二は認めた。普段歯牙にも掛けない他人の様子が気になってしまうというのは、つまりそういうことだった。自分に呆れて、視線を窓の外に移す。忍びの者に必要な素質は、いついかなるときでも平静を失わないことだ。それから、機を待つ根気も――養父からもたしなめられたことがある。
 ――お前は真面目なわりに癇癖が強くていけない。相手を斃す技術、腕力、殺す意思、武器や伝手……たとえそのすべてを持ち合わせていたとて、平静さと根気を失った者はあっさり死ぬ。
 そういうものなのだろう、と影二も分かっている。とはいえ気が短いのは生まれもっての性分である。なまじ里に並び立つ者がいない程度には腕が立つせいで、悪癖を治す機会を後回しにしたままここまできてしまった。その自覚はあった。
「考え込んでおるようじゃな、忍者」
 いつの間にか口笛が止んでいた。
「……言っておくが、怖じ気づいているわけではないぞ」
「ならば小娘のことか」
「いや……」
 ユナのことを言われるとは思っていなかったため、影二はほんの少し驚いた。ちらと柴舟を見る。彼はこちらを見てはいなかったが、視線には気付いたのか笑ってみせた。
「また随分と薄情よな」
「そういうキサマこそ、静殿の苦言も聞かず家に居着かぬくせに」
 ――格闘家とはそういうものではないのか。
 静寂に、疑問とも独り言とも付かない呟きを落とすと、柴舟は困ったように眉を下げた。痛いところを突かれた、というわけではなさそうだ。幼い頃、影二が癇癪を起こすたびに養父も同じ顔をしていた――
「ワシと静は家族だ」
 柴舟がぽつりと呟いた。彼らとこちらとで、はっきり線を引くように。その言葉は酷く癇に障ったが、返す言葉は見つからなかった。続く話題も、代わる話題もなく、影二は押し黙った。気まずい時間を過ごすこと、二十分。いや、三十分か。
「忍者」
 改めて呼びかけられるまでもなく、影二も気付いていた。
 柴舟が車のエンジンを止めたため、今ははっきりと聞こえる。暗闇の中、かつかつと足音が響いている。それは静かに忍び寄ってくる死の気配にも似た、不吉さを伴っていた。
 どちらともなく車から降りて、相手の行く手に立ちふさがる。背の高い、青い祭服に身を包んだ男だ。彼は二人に気付くと静かに足を止め、うっすら微笑んでみせた。
「草薙柴舟に、如月影二……」
「お初にお目にかかる、オロチ四天王のゲーニッツ殿」
 白々しい柴舟の挨拶にかぶせるようにして、影二はまくし立てた。
「まずはオレと手合わせ願おう」
「待て! ワシが先じゃ!」
 慌てて、柴舟が口を挟んでくるが。
「お二人でどうぞ。その方が、わたしも楽しめるというもの」
 小馬鹿にしたというよりは本気でそう思っている様子で、ゲーニッツ。さすがにカチンときたのか、柴舟の顔が引きつる。ただ、彼が飛び出して行くより先に影二は地面を蹴っていた。ほとんど不意打ちに近く、影二は腕を振りかぶった――外したところで、背後では柴舟が抜け目なく技を撃つため構えている。
「なめるなっ!」

 ***

 駅前に出ればタクシーの姿はあったが、明らかに日本人でない容姿が災いしてか乗せてもらうのにまた時間を要した。あるいは人種関係なく、素性の知れない人間を運ぶという仕事をしている彼らは多少なり一般人より鼻が利くのかもしれない。こんなとき、組織の力がはたらかない場所での自分の無力さを思い知らされる――ユナは膝の上で組み合わせた手にぎゅっと力を込めた。人の好さそうな運転手をどうにか掴まえたはいいが、部屋を出てからすでに一時間が経っている。ゲーニッツとの交戦はすでに始まっているに違いなかった。
「お客さん、本当に空港まで行くんですか? ここからだとかなり料金かかりますけど」
「大丈夫。お金はあるから。それより、もっとスピード上げてもらえない?」
 切実に頼んだつもりだったが、警察の取り締まりがあるからとあっさりはね付けられてしまった。そうなるともう、ユナには後部座席で揺られることしかできない。
「見たところ荷物もないようですけど、どんな用事なんです?」
「どんな……」
 運転手の問いかけに、ユナはふと考え込んだ。ジャケットの下に隠した拳銃を撫でる。自分ひとりが駆けつけたところで、ゲーニッツとの闘いにおいてはなんの助けにもならないことは分かっていた。それでも、
「……約束、かな」
 共闘すると言ったのだ。それを違えれば、本当に役割を失ってしまう。ビリーの部下としても、影二の同盟者としても――
「なるほど」
 分かったような、分かっていないような、どちらとも付かない顔で運転手は頷いた。得体の知れない乗客から事情を聞き出すことは諦めたのか、代わりに彼自身の境遇を語り出す。その話をぼんやりと聞きながら、ユナは窓の外を眺めていた。水平線の向こうが、うっすら白んできている。夜明けが近い。

 ***

 目の前で生まれた疾風が、衝撃波をいとも容易く消し去る。相殺などという生ぬるいものではなく、むしろ風はいっそう激しく渦を巻いて影二の体をはじき飛ばした。受け身で勢いを殺したものの、そのままガードレールに背中から激突して思わずうめき声が零れる。
 口の中に溜まった血を唾液とともに吐き捨てながら、影二は顔をしかめた。
(この男……化け物か?)
 怪我こそ負っているものの顔色一つ変わらない牧師を眺め、胸の内で毒づく。夜更けに始まった闘いは一晩中続き、いつの間にか夜が明け始めている。ただ、勝負はもうついたようなものだった。影二自身は満身創痍だ。大技の連発で体力が尽きかけている上、左腕の怪我が致命的だ――致命傷ではないものの、動かなくなってしまえば余計な重りをぶら下げているのと変わりない。柴舟に至っても、なまじ腕が立つせいでゲーニッツとまともにやり合って、かなりの深手を負っている。
「久しぶりに楽しい闘いができましたよ……実に楽しかった」
 浅く切れた額から流れる血を手の甲で拭って、ゲーニッツが笑った。柴舟の体が強ばる。影二は左腕を押さえたまま、どうしたものかと考えあぐねた。今打てる手を何通りかシミュレーションしても、勝てる見込みが薄い。後がない。退路は自ら断った――逃走は格闘家としての死と同義だ。生き延びたところでいずれにせよ先がない。柴舟も同様だろう。
(詰み、か……)
 勝負は決した。圧倒的な敗北だ。どう足掻いたところで認めざるをえない。
 だが、
「それでは先を急ぐので」
 そう言うとゲーニッツは二人の横を通り過ぎて去っていった。何事もなかったかのように、あまりにあっさりと。去ってしまえば、もう振り返りもしない。まるで嵐そのものだ。
 そんな彼の後を追う気力も体力もなく、呆然と背中を見送る形で――
「今、何時だ」
 ハッと気付いたように、柴舟が訊ねてきた。
 それを知ることになんの意味があるのか分からなかったが、影二はぞんざいに答えた。
「さあな。陽が昇ってるから、朝だろ」
「悔しいが……もう動けん」
「だが、生かされた」
 傷付いた腕を押さえながら、苦く呟く。今はぴくりとも動かないが、潰されたわけでもない。治療さえすれば後遺症も残らないだろう。格闘家としては幸いと取るべきだが、怪我の程度がかえって影二のプライドを傷付けた。
(なにをしている?)
 全身から噴き出した汗が、すっかり体の芯まで冷やしていた。ついでに、熱に浮かされていた頭も――という言い方をしたらユナは怒るだろうか。自問してかぶりを振ったのは、激怒する彼女の顔がどうしても想像できなかったからだ。怒る代わりに諦めて、すぐに忘れたふりをするのだろう。おそらくは。
 瞬間、傷付いたつもりもない胸をわずかに刺すような痛みがあった。というのは、どう考えても気のせいに違いなかったが。
「オレは行く」
 溜めていた息とともに声を吐き出すと、柴舟はわずかに驚いたようだった。
「見ては行かんのか? 京とやつの闘いを……」
「強いやつと闘い……勝つことによってオレは己の強さを確認してきた」
 ――というのも今更だ。
 しかし、その今更な事実をいっとき忘れていたのは否定しようもない。
「やつが勝とうが負けようが構わん。強いやつがいる以上、修行するのみ。さらに強くなって、また戻ってきてやる……」
 かぶりを振る仕草で胸に過ぎった雑念を追い出すと、影二は柴舟に背を向けた。
「ハワード・コネクションの小娘はどうする?」
 歩き出そうとした影二の背後から、柴舟が見透かす声を投げてきた。嫌なジジイだと内心悪態を吐きながら、影二は反射的に告げた。
「オレには関係ない」
 それを言うくらいなら、まだ無言で去った方がましだったのかもしれない。八つ当たりじみていると気付いたところで、まったく後の祭りだ。聞こえてきた小さな嘆息に今度こそはっきりと舌打ちして、振り返りもせず重たい体を引きずっていく――

 ***

 ユナがそこに辿り着いたのは、夜が明けて完全にあたりが明るくなった頃だった。人目を気にしたのだろうが、彼らが山道を行ったため辿り着くまでに時間がかかってしまった形だ。朝の柔らかな陽光に照らされ、赤く濡れたアスファルトが視界に飛び込んでくる。
「京パパ!」
 道路脇に、柴舟が倒れている。
 ユナは慌てて駆け寄ると、彼の体を抱き起こそうとして思い止まった。見た目ほど出血は酷くないが、酷く打ち据えられたような様子がある。骨が折れているかもしれない。頭の傷も気になる。下手に動かせば、かえって致命傷になりかねない。
「運転手さん、救急車呼んで!」
 おろおろしているタクシーの運転手に頼むと、ユナは柴舟の傍に膝を付いた。気を失っている彼の顔が、どこかすっきりしているように見えるのは気のせいだろうか。
「ゲーニッツと闘って満足したのかもしれないけどさ、こんな大怪我して静さんが心配するよ。わたしだって影二のこと心配だもん。ていうか、影二はどこ行っちゃったの……?」
 問いかけたところで答えが返ってくるはずもないことは分かっていたが。
 ――いつだって間が悪いんだよね、わたし。
 零れかけた弱音を呑み込んで、代わりに息を吐く。サウスタウンで死んだ同僚たちのことを思えば、間の悪さを生き延びた理由にしてしまうのは無神経が過ぎるのだろう。
 タクシーの運転手に柴舟のことを頼んで、少しだけあたりを見て回った。ゲーニッツとの闘いは激しかったのか、大事故か、でなければ大地震でも起きたような有様だ。割れたアスファルトは大きくめくれあがれ、ガードレールは大破して見る影もない。
 崖の下まで確認したが、目に見える範囲に影二の姿はなかった。
 そのことにホッとしながら――でなければ、いっそうの不安を掻き立てられて――もう少し遠くまで足をのばしてみようかと思ったところに、救急車が到着した。
(さすがに、病院への同乗まで運転手さんに任せるわけにはいかないか……)
 当然のことではある。後ろ髪を引かれる思いでその場を離れ、タクシーの運転手には多めの料金を払った。柴舟の意識は、いまだ戻らない。担架で運び込まれる彼とともに救急車に乗り込む。搬送先の病院から静に連絡すると、さすがの彼女も多少驚いたようだ。それでも取り乱すことはせずに、支度をしてすぐに向かいますと言ったのだった。
 京とは連絡が付かなかった。
 高校では予定通り文化祭が行われているに違いないが、すでにゲーニッツの乱入があったのかもしれない。様子を見に行こうかと申し出たユナを、静が巻き込まれるといけないからと押しとどめた。
 病室で、柴舟の処置が終わるのを待つ静と二人。なんとなく無言のまま過ごすことにも耐えられなくなって、ユナは口を開いた。
「静さん」
 と、呼ぶと彼女は目を大きくした。名前で呼ばれるとは思ってもみなかった、という顔だった。もしかしたら、柴舟の怪我を告げたときよりも驚いていたかもしれない。
「ええと、その、ナンデそんなに冷静なの? ああ、いや、責めてるわけじゃなくて」
 言葉足らずかと思って付け加えると、静は軽く微笑んだ。
「顔色が悪いわ。こっちへいらっしゃい」
 まるで幼子に訊ねるように、顔を覗き込んでくる。
 その目を見つめているうちに酷く恥ずかしくなってしまって、ユナは小声で言った。
「ごめん。柴舟さんがあんなに怪我して、静さんだって平気なはずないよね」
「如月さんなら戻ってきますよ、きっと」
 静の目はいつだって凪いでいて優しい。
「京ママは、いつもどうやって信じてるの。京や柴舟さんがいない間」
「帰る場所は、誰にだって必要でしょう?」
「…………」
 それを聞いて、ユナはわずかに俯いた。
「だったら……」
 一度唇を噛み、続ける。
「影二は如月の里に帰ったのかも」
「ユナさん」
「わたし、影二の家族どころかコイビトですらなくて、一方的に好きなだけで……でも、如月の里には影二の育ての親がいる。里の人とも仲良いし、普通はソッチに帰るよね」
 静はなにも言わなかった。代わりにほっそりとした手でユナの背中をしばらく撫でていた。その掌の感触があまりにも優しくて、ユナは手の甲で目元を拭った。涙は零れなかったが、どうしてか自分が泣いているように錯覚したのだ。
 柴舟が目を覚ましたのは、それから二日後だった。

 怒濤の二日だった。
 柴舟が倒れ、影二が姿を消し、ゲーニッツは京の高校に乗り込んだ。後から聞いた話によると八神庵が敗北し、京たちもまったく歯が立たなかったのだという。そんな中、神楽ちづるが助けに入り――柴舟の前にたびたび姿を現していた新聞記者だ。もちろん新聞記者というのは仮の姿だったわけだが――交渉の末、一晩の猶予を得た。
 代わりにユキを人質として取られつつも、追い詰められた中で見事に『無式』を会得し、ゲーニッツを倒したという話である。京はゲーニッツを殺さず、ちづるが彼の持つオロチの力だけを封じたのだと聞いた。そのあたりについては、さすがに詳しく語られなかった――というのは、情報の拡散を恐れてのことだろう。今回の事件は遠からず、サウスタウンにいるギース・ハワードに伝わる。ユナも彼らに対する最低限の友誼として、事の顛末をビリーに報告しなければならないことを告げていた。
 意識のなかった庵とあばらを折られた拳崇も、今は別の病室でそれぞれ療養している。
 
「は――」
 静の姿を見て安堵した目が、ユナを捉えてわずかに気まずさを帯びる。
「おはよう、柴舟さん。気分はどう?」
 まるで悪役にでもなったみたいだと思いながら、ユナはぎこちなく訊ねた。
「いやあ、やられたやられた。ワシもまだまだだな」
 眠っている間に多少は体力も戻ったのだろう。いつもの調子で明るく笑う彼に、けれど笑い返す気にはなれなかった。かといって影二の話題を切り出す勇気もなく、押し黙る。
 沈黙の気まずさに耐えかねたのだろう、京が苛立った様子で口を開いた。
「如月は?」
「……やつとの闘いの後、去った」
「……ナニか言ってた?」
 京の視線に促され、やっとのことで訊ねる。柴舟は彼らしくもなく目を逸らした。それだけで察するものがあって、ユナはすっと肩から力を抜いた。
「そっか。そっかー……」
 怒ると言うよりは脱力して、その事実を反芻する。苦い心地で何度も、何度も。そうしてようやく呑み込んだ――静と話していたことが現実になった。それだけの結末を受け入れるのに、随分と時間をかけてしまったが。ちらりと静を見る。目が合うと静は気遣わしげに目を細めた。彼女の優しさを瞬き二回で拒絶して、ユナはぽつりと呟いた。
「仕方ないよ。うん。普通は家族のとこに帰るんだろうし」
「お前、それはさすがに」
 代わりに怒ろうとしてくれたのだろうか。それとも単純に呆れたのだろうか。なにかを言いかけた京を遮るようにして、ユナは早口でまくし立てた。
「わたしもこれからのこと考えなきゃ。そろそろ行くね。京パパ、お大事に。静さんをあんまり困らせちゃ駄目だよ。いくら信じてたって、大切な人が大怪我したら辛いことには変わりないんだから」
「おい」
 足早に病室を出る。すれ違った看護師が顔をしかめていくのが見えて、なんとなく速度を落としながら。外へ出て息を吐いていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
 京だ。病室から追ってきたらしい。
「サウスタウンに帰るのか?」
 単刀直入に訊ねてくる。その簡潔さは彼らしいなと思って、ユナは少しだけ笑った。
「どうだろ。影二に振られましたって言って戻るのは気まずいよねえ」
「こんなときにまで茶化すなよ」
「茶化してないって」
 睨んでくる京にかぶりを振る。
「ここに残ったのだって影二が引き留めてくれたからって、そんなふざけた理由だし……それでビリー様と一緒に戻った同僚たちは死んじゃって、わたしは生きてて、それだけでも体裁が悪いのにさ。怒られるでしょ。さすがに」
「体裁の問題じゃねえだろ」
「そうでもないよ。生きててよかったってのは、役目を果たした人のための言葉じゃん?」
 もっともらしく言って、ユナは唇を歪めた。
「なにもかも中途半端で、せめてひとつくらいは成果を持って帰らなきゃ……」
 というのも、あるいは日本に残るための言い訳なのかもしれない。
「呑気なくせして、存外に悲観的だよな」
「逆だよ、逆。呑気してたからどうにもならなくなってんの。二つの椅子の間に落ちる……ってやつ。コッチだと、二匹のウサギを追っかけて一匹も掴まえられないって言うんだっけ。そんな気分」
 苦笑いするユナに、京は言い返そうとしたようだったが。すぐになにを言っても気休めにしかなりそうにないことに気付いたのか、出かかった言葉を吐息に変えた。
「まあ、困ったらいつでも言えよ。飯も、また食いに来ればいい。オレはともかく、おふくろがお前のこと気に掛けてるからな。あんま心配かけんじゃねえぞ」
 代わりにそう締めくくって、建物の中へ戻っていく。
 その後ろ姿をぼんやり見送って、
「……ありがと」
 憂鬱に呟くと、ユナもくるりと踵を返した。
 まずは部屋に戻ってビリーに報告をしなければならない。それから今後の方針について指示を仰ぐわけだが――正直なところ、彼がどんな判断を下すのか想像がつかない。
(勝手なことしやがってって、怒られるのかな。それとも……)
 怒ってさえもらえないのかもしれない。神楽財閥がオロチの封印を守っているという情報はハワード・コネクションにとって有益だろう。だが、それで命令違反が帳消しになるというものでもない。それが組織というものだ。
(クビ、かなあ)
 その可能性を噛みしめ、無気力に空っぽの掌を見下ろす。
(好きな男の一人も引き留められなくて、恩人にもなにも返せなくて、まあ似合いっちゃ似合いだけど……せめて、ひとつだけでも掴めるものがあったらって、贅沢なのかな)
 自問し、溜息をひとつ。それでも遠回りのひとつもせず、まっすぐアパートへ帰った。部屋の中は出ていったときと変わらない。一人暮らしのワンルーム。ただ、影二がしばしば泊まるようになった分だけ最初の頃よりいくらか荷物が増えた。寝床代わりに使っていたソファはいつの間にか彼に奪われてしまったため、簡易ベッドを増やした。それから食器と、簡単な収納ボックスも。
 二人分を合わせても一般的な一人暮らしの荷物には満たないが、それでも確かに生活の名残はある――眺めているうちに酷く気分が悪くなって、ユナはその場にしゃがみ込んだ。
「せめて、振ってから行くとかさあ。あるでしょ。その手間も惜しんだのか、もうドーでもよかったのか分からないけど……約束したのにね……?」
 そんなにも価値のない約束だっただろうかと自問する。答えは、まあ簡単だった。書面に残したわけでもない、所詮は口約束だ。言った覚えがないととぼけられてしまえば追求のしようがない。勝手に夢を見て、目が覚めて、現実ではなかったと怒るようなものだ。
 それでもひとつくらいは、夢が現実になるのではないかと信じたかった――
 しゃがみ込んだままぼんやりしていると、電話が鳴った。ビリーだろう。さすがに夢を見る気にはなれず、のろのろ電話を取る。
「ビリー様……」
 受話器に向かって呟くと、聞き慣れた上司の声が応えてきた。
「やっと出たな、ユナ・ナンシィ・オーエン!」
「すみません」
「なんだよ。随分としおらしいな、気色ワリィ」
「そういうわけでもないんですけど、その、ご迷惑もおかけしましたし……」
「自覚があるだけマシとは言わねえからな。で、報告は。他のやつらに顔向けできねえって飛び出してったんだ。それで生きて帰ったってんなら、なにかあんだろ?」
 開口一番で怒られなかったことを意外に思いながら、ユナは二日間で起きたことと神楽財閥の件を報告した。京がゲーニッツを倒したというくだりで、ビリーは一瞬だけ悔しそうに歯軋りをしてみせたが――すぐに短く息を吐き出して、言った。
「ひとまず、よくやった。神楽財閥に関する情報は有用だ」
「は、はい……」
「この件に関してはギース様に報告する。もちろん、命令違反についでも」
「分かっています」
「それまでは待機だ」
「……それだけ、ですか?」
 あっさりと報告が済んだことに拍子抜けして、訊き返す。電話の向こうで、ビリーは少しだけ笑ったようだった。
「問答無用でクビを切られるとでも思ったのかよ。オレに決められるこっちゃねえだろ」
「まあ、言われてみればそうですけど。もっと、怒られるかと」
「じゃ訊き返すが、オレはなにに対して怒ればいい? ゲーニッツは部下たちを殺したが、そんなやつを生かすと決めたのはお前じゃなくて草薙の野郎だ。如月も引っかき回すだけ引っかき回して消えちまって、どうしようもねえことすべての責任をお前にかぶせるのは酷だろ。それに……」
 一度言葉を切って、小声で吐き出す。
「その場にいなかったとはいえ、お前が結末を見てきてくれてよかった。でなけりゃ、すっきりしないままだっただろうからな。ギース様の決定に文句があるわけじゃないが」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。クビを免れたと決まったわけじゃねえんだからな」
 そうは言ってもビリーのことだ。少しでも処分が軽くなるよう、それなりに言葉を尽くしてはくれるのだろう。もう一度礼を告げて電話を切る。
 今度こそ室内は静寂に包まれた。
「……振り出しに戻ったっていうのかな」
 少なくともひとつは失わずに済んだ。考えようによっては、影二と出会う前に戻っただけとも言える――そう、何度か自分に言い聞かせて。ユナはひとつだけ、やるべきことを思い出した。足に力を込めて立ち上がり、壁に飾ったカレンダーを両手でびりびりと裂く。指の隙間から零れ落ちた紙吹雪を掻き集めてゴミ箱に突っ込んだ。
 ちらりと見えた二十五。その数字に赤丸を付けた瞬間の感情は努めて思い出すまいとしながら。




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