08

 梅雨も明けた八月。夏真っ盛り。世間一般で言うところの夏休み。長期休暇に学生たちも浮かれきっている――というのは、いくらか偏見も交じっているのだろうが。
「まったく……」
 視線の先にいる高校生たちが浮ついているのは、紛れもない事実だった。如月影二はそっと嘆息しつつ、酷く無防備な恰好の彼らを眺め見た。
 草薙京と連れ合いの少女、麻宮アテナに椎拳崇の姿もある。京がオロチの誘惑を振り切って力を取り戻したのが、先日の話である。それで終わったと言わないまでも、一区切りついたくらいの気持ちなのかもしれない。
「それにしてもプールでダブルデートって、まったりしてるよねえ」
 呟いたのは、ユナだった。いつもなら真っ先にはしゃぎそうな彼女が、プールサイドを眺めながら珍しくぼやいている――そう、市民プールだ。ちょうど五周年の節目を迎えたらしい。サマークリスマスと併せて祝っていることもあってか、人が多い。
「気持ちは分かるが、不機嫌そうな顔をするな。目立つ」
 影二が小声でたしなめると、ユナは呆れたような顔をした。
「目立つって……それ、影二が言う?」
「なにが言いたい?」
「赤い褌! 海ならともかく、プールで褌ってどうなの?」
 と、彼女は溜息をつくが。ほとんど言いがかりにしか聞こえず、影二は眉をひそめた。
「海もプールも、そう変わらんだろ」
「プールはね、公共の施設なんだよ。ある程度のモラルが求められる場所だよ」
「ヤクザ者がモラルを語るとは、これほどおかしいこともあるまい」
「そりゃそうだけど……」
 そう言うユナは、シンプルな黒のビキニだった。多少は目のやり場に困るものの、この場にいる他の女たちと比べて露出が高すぎるということもない。白い肌に映えて、よく似合っている。とはいえ、日本人とは明らかに異なる顔立ちと髪色が人目を引いてもいる――本人は、そのすべてが褌に向けられたものと信じて疑っていないようだが。
「でも、ニンジャが目立つって……」
「なにを今更」
「って、開き直っていいのかなあ」
 よほど納得いかないのか、ぶつぶつ呟きつつ。
「そもそもサマークリスマスって、ナニ。確かに南半休じゃクリスマスの季節は夏だけどさ、だからって夏にまでクリスマスを作ることなんてないのに……」
 また新しい不満を見つけ、矛先を変えていく。
「珍しいな」
 影二は思わず呟いた。
 プールサイドには人工雪が降り注ぎ、サンタ・クロースに扮した監視員には幼い子供たちが群がっている。確かに季節外れな光景だが、どうというほどのものでもない。
 詮のないことを言っている自覚もなかったのか、ユナは鋭いもので刺されたように一瞬だけ硬直した。笑みの張り付けきれなかった顔で、慌てて言い直してくる。
「そだね。関係ないことにまで文句付けることなかったね」
「ではなく。お前のことだから、他のやつらと同じように浮かれるのかと思ったが」
 互いに口が滑りがちになるのは、暑さのせいかもしれない。額に浮かぶ汗を拭いながら、影二は少しだけ後悔していた。他愛ない軽口のつもりだったが、考えてみればこういった場面でユナがはしゃぐことはほとんどなかったような気もする。
 気まずく見合わせた顔を背けるわけにもいかず、仕方なしにユナの返事を待つ。と、
「クリスマスを楽しみにするのはさ、サンタ・クロースが来るうちの子だけでしょ」
 他の客がはしゃぐ声に紛れ、危うく聞き逃してしまうところだった。訊き返すつもりもなかったが、ユナはその話題を避けるように瞳をプールサイドへ投げている。際限なくはしゃぐ連れの少女たちに付き合うのも疲れたのか、京と拳崇の姿はサマーチェアの上にあった。彼らの会話は今のところとりとめもなく、然程重要ではなさそうに思えたが。
「この話、やめよ。辛気くさくなるよ!」
 言って、もう振り向きもしない。
 その背中に、影二は低く声をかけた。
「オレのところにもサンタは来なかった」
 ぴくりと跳ねる――無防備な肩を掴んで振り向かせたい衝動に駆られつつ、影二は空の拳を握りしめた。先日の一件から、一週間。まるで何事もなかったように、変わらぬ日常が続いている。一方で、なにもかもが以前のままというわけではなかった。ふとした折に、どうしてもユナへの感情を意識する。「考えたこともなかった」――ユナに告げた言葉に偽りはないにしろ、それはまったくの無感情と同義でもない。胸のうちには、確かに持て余したなにかがある。少なくとも損得勘定を無視して、共闘関係を引き延ばす程度には。
 その正体を掴みかねたまま、静かに続ける。
「だが、祝いはしたな。オレの誕生日だ」
 口に出してからひそかに顔をしかめたのは、ユナの好意に付け込んだ自覚があったからだった。きっと、彼女は予想したとおりに雰囲気を和らげるのだ。ほんの一秒前まで惨めさの象徴でしかなかったクリスマスに、別の意味を見出して。
「そうなの?」
 案の定、ユナは驚いたように振り返ってきた。
 いっそ聞き流してくれた方がよかったと思いながら、影二は苦く頷いた。
「ああ」
「だったらさ……」
 そこで一度言葉を切ると、ユナは躊躇いがちに何度か瞬きをした。そのたびに髪よりはいくらか濃い灰色の睫毛が青い瞳に影を落として、色彩をいっそう複雑なものにする。影二は黙ったまま、ユナの瞳に視線をそそいでいた。
 やがて、
「今年はお祝いさせてよ。影二が生まれた日なら、わたしも好きになりたいから」
 囁きは、あの日の告白にも似ていた。
 思わぬ不意打ちを食らった心地で、影二はしばし言葉を失った。俯くユナの頬がほんのりと赤く染まっているように見えたのは、強すぎる陽射しのせいだけではないだろう。
「気が、早い」
 得たいの知れない感情が詰まった喉の奥から、ようやくその言葉だけを押し出す。
 ユナは――彼女も緊張していたのかもしれない。でなければ、自分の発言に照れていたのか。こちらの様子に気付いたふうもなく、伏し目がちに付け加えた。
「予約しとかないと他の人に先越されちゃうかもでしょ」
「そんな物好きは、お前くらいのものだ」
 それだけは断言すると、ユナはようやく顔を上げた。
「わたしだけか。じゃ、物好きでいいや……って言い方は駄目だね。物好きがいい」
 満更でもなさそうに言い直して笑う。それは、いつもの気の抜けた笑みとはまた違う。明るく、きらきらと輝いていた。まるで目の奥で光が明滅しているような、そんな錯覚に影二はふいと建物の陰へ視線を逸らした。
 恋をしている女の顔だ。
 よく知っているはずの顔が、今さらながらまったく別のもののように見えてくる。自分の鈍さと迂闊さに小さく歯を軋らせながら、影二は言った。
「……どうにでも、お前の好きにしろ」
 不誠実に選択を委ねるほど、自分の首を絞めかねないのだろうが。代わりの言葉も思いつかなかった。ユナはこちらの様子にも気付かず――浮かれているからというわけではなく、プールサイドに異変を見つけたようだ――あっと声を上げ、影二の腕を引いた。
「京のパパだよ、影二!」
 遅れて、彼女の視線を追う。確かに草薙柴舟だ。泳げないわけでもないだろうに浮かれた柄の浮き輪を斜めがけにしている。京と拳崇の会話は、折しも八神庵の話題に移っていた――その頃合いを見計らっていたに違いない。
「どうじゃ? 草薙家と八神家の“血の宿縁”の話、聞きたいか?」
 柴舟は腕組みをほどくと、ぽかんとしている京たちに切り出した。常ならば人を食ったようなその声が、今はそうと分かる程度に真剣さを帯びている。
「あのクソじじい、オレには自分で調べろとかぬかしておいて……!」
 眉根を寄せる影二に、ユナはかぶりを振った。
「仕方ないよ。わたしや影二に話す義理はないんだし」
 もっともらしく言って、前のめり気味に柴舟の様子を窺う。久々の仕事らしい雰囲気に、張り切っているようだった。でなければ、日本に残った代わりに成果を上げるようビリーから言い含められていたのか。影二も些末は忘れることにして、視線をプールサイドへ戻した。
 備え付けのサマーベッドに寝そべっていた京が、慌てて体を起こすのが見える。
「親父!」
「黙って聞け」
 そんな息子を一言で制すと、柴舟はいっそう声色を厳かなものにした。
「草薙流古武術正統後継者として新たなる闘いの前だ。お前も再び心に刻むがよかろう」
 それで雰囲気が変わったことを察してか、京もそれ以上口を挟みはしなかった。
 あたりは変わらず騒々しい。壁の外側からじりじりと聞こえてくる蝉の声。笑い声を上げながら駆けていく子供たちと、それを軽くたしなめる監視員――
「はるか昔……」
 語る柴舟は、どんな顔をしているのだろうか。ちょうど背を向けられた形になっているため、こちらからは見えない。だが、彼の声だけはやけにはっきりと聞こえてくる。
「この日本に“地上最強の拳”とうたわれた二つの流派があった。それこそが草薙の拳と八尺瓊の拳。伝承では千八百年前にヤマタノオロチと呼ばれていた悪鬼を草薙八尺瓊は倒し……以降も二つの流派は互いの技を磨き合い――千百四十年、ついに完成を見たという」
 周囲の人々がまったく立ち止まることもせず通り過ぎて行くのを見るに、その声はすぐ隣にいる人と会話をする程度の大きさでしかなかったのか。あるいは由緒正しい流派の歴史など雑音となんら変わらない、ということかもしれない。蝉の鳴き声と同じだ。破滅を伴う力との闘いなど、無関係の人にすれば虫の身を削る求婚ほども意味を持たない。
 柴舟が続ける。声に多少暗いものを混ぜながら、
「しかし八尺瓊の心の中には決して消えぬ思いがあった。それは“オロチの力”への憧れ。先代によって封じられし“オロチの力”その恐れられ、拒絶され続けた壮絶なる力。その力への憧れを、八尺瓊は抑えることができなかった」
 口伝のみで知る先祖と古い盟友に思いを馳せているようにも聞こえる。
「八尺瓊は時の帝の命により幽閉されることになる。が、八尺瓊によって“オロチの力”はすでに封印の一部が解かれていた――これが伝承のすべてだ」
「そんな昔のことでずっといがみあっていたの?」
 これはアテナだ。
 疑わしげな彼女に、柴舟はかぶりを振った。
「激しくなったのは最近のことだ。再びオロチの封印が解かれ、それに八神のこせがれがそそのかされとる」
「分かった! ルガールや。やつがオロチの封印を解いたから……」
 声を荒らげる拳崇に、しかし柴舟はそれも否定した。
「いや、封印を解いたのは別の男だ。ルガールはそれをかすめ盗ったにすぎん」
「別の男? その男ってのは何者だ?」
 京が興味深げに眉を上げる。
「その男とは――」
 勿体付けるように一拍の間を置いて――
「オロチ八傑衆のうちのさらに選ばれし四天王のひとり、吹き荒ぶ風のゲーニッツ」
 答えたのは、柴舟ではなかった。
 いつからそこにいたのか、肩からカメラバッグを提げたショートカットの女が柴舟の傍に佇んでいる。スポーツ新聞の記者だ。取材のため草薙邸に何度か訪れてきたのを、影二も見ている。声をかけられたこともある――気配を消していたにもかかわらず、だ。
(申告通りの記者かどうか、怪しいところだ。事情を知りすぎている……)
 考え込む影二の隣で、ユナも神妙に眉をひそめている。
 もっとも彼女の方は怪しい記者の正体に思いを馳せているわけではなさそうだった。
「吹き荒ぶ風の……ビリー様が言ってた……」
「ルガールの右目を奪ったほどの男だ。やつの洗脳を受けたときに得た情報だが……」
 それが聞こえたはずもないが、言葉を引き継いだようなタイミングで柴舟の声が続いてくる。ユナの顔がますます険しくなる。いや、ユナだけではない。話を聞いていた学生たちも、思い思いに難しい顔で考え込んでいる。
「……行くぞ、ユナ」
 影二は彼らに気取られぬよう、そっとユナの腕を引いた。
「えっ、どこに?」
 顔を上げる彼女に告げる。
「必要な情報はあらかた揃った。あとは時を待つばかりだ」
「時……」
「ビリーにも話を聞いておけ。サウスタウンでゲーニッツとやらを追っているのだろう?」
「そうだね」
 頷くユナを更衣室の前で見送り、物陰に隠していた忍装束をさっと羽織った。施設の高い壁を飛び越え、事前に打ち合わせしていたとおり少し離れた木の上で待つ。三十分もしないうちに小さなリュックを背負ったユナが、入り口から出てくるのが見えた。
 合流し、どちらともなく歩き出す。

「ギース・ハワードの目的はオロチの力だったな。ゲーニッツを生け捕りにする気か?」
 帰路の途中。互いに言葉は少なかった――考えるべきことが多すぎた。草薙と八尺瓊の因縁、血の契約に支配された八神、オロチの封印を解いたゲーニッツ……ルガールがその力の一部をかすめ盗っていたというのなら、ギースの用件もかの男にあると考えるのが自然だが。
「どうかな?」
 ユナの返事はなんとも煮え切らない。
「いや、誤魔化してるわけじゃなくてさ。ギース様は、そのへんもう少し現実的っていうか。リスクには、それに見合うリターンが必要でしょ。ビジネスなんだから」
「なるほど?」
「だから判断材料集めてるわけだけど……ビリー様に改めて判断仰がないと、わたしには分からないよ。あとはサウスタウンがどうなってるかにもよりそう」
 そこまで言ったところで不意に言葉を切ると、探るように訊ねてきた。
「それで、影二の方は?」
「というと」
「目的。最初はほら、草薙と八神の血の宿縁? 知りたいって言ってたじゃん。結局あれってなんだったの? 影二も、オロチの力に興味があったりするの?」
 どこまでも駆け引きを知らない彼女に苦笑いしつつ、影二は手を振る仕草で否定した。
「いや――八神はともかく、草薙の先祖がひたすら技を磨いて流派の完成に辿り着いたのなら、それでよい。オレの拳も最強の高みに届くと証明されたようなものだ」
 我ながら大した自信だった。
 さすがに呆れただろうかと、ちらとユナを見る。彼女は影二の視線に気付くとごくごく自然に頷いた。だからというわけでもないが、もう少しだけ打ち明けたくなってしまった。
「オロチの力も必要ない。所詮、邪道だ。血の契約とやらで強くなったとて、オレの実力ではない。ただ……そうだな。この拳がどれだけ通用するかには興味がある」
「だよね。影二は、そうだよね」
 その会話でなんとなく、腹の底にわだかまっていた懸念のようなものもなくなった。ユナにしても同じだったのだろう。ずり落ちかけていたリュックを背負い直し、跳ねるようにして歩いて行く。横顔は随分と明るい。
「すべて終わったような顔をするのだな」
 思わず呟くと、ユナは足を止めた。
「そうだね。ゲーニッツを倒すってだけの話なら……影二がいて、ビリー様がいて、あと京たちがいるならほとんど大丈夫かなって。他人事かもだけど。京のパパの話を聞くまでは、場合によっては影二と対立しちゃうかもってことの方が心配だったよ」
「お前に後れを取るオレではない」
 鼻で笑う影二に気を悪くした様子もない。それもそうだねと頷いて、
「だったら、もう心配事はひとつもないかな」
 ふにゃっと笑ってみせる。
 日頃なら楽観が過ぎると呆れるところだが、なぜか責める気にはなれなかった。それどころか遅れて唇がほんの少しだけゆるんでいることに気付いてしまって、影二は覆面の上から口元を手で押さえた。
「そうか」
「うん……ん?」
 ユナも頷いて――語尾を跳ね上げたのは、ふと頭上が翳ったことに気付いたからだろう。影二もつられて目線を上げた。青空をただよっていた入道雲が、その色を不機嫌に変えている。
「夕立が来るな。走る……」
 ぞ、と隣に促そうとして。
 その瞬間を狙い澄ましたかのように、大粒の雨が一滴。鼻の頭を叩いた。文字通り出鼻を挫かれてわずかに怯んだそこへ、追い打ちをかけるように激しく降り出してくる。
「うわ……」
 空を見上げたままいつまでも硬直していそうなユナの手を掴むと、影二は強く引いた。彼女のアパートまでは、まだ少し距離がある。雨宿りのできそうな場所を探して走り出す。
 もっとも、雨脚の激しさからすれば急ぐことに意味があるとも思えなかったが。実際、近くにあった店の軒先に滑り込んだ頃には二人ともすっかり濡れ鼠になっていた。
「うー……リュックの中までぐちゃぐちゃ……」
 隣で荷物の中身を確認していたユナが、がっくりと肩を落としている。ようやく引っ張り出したタオルは彼女の言うとおり濡れそぼって、それ以上水を吸いそうにはない。
 ユナは諦めてリュックを背負い直し、手持ちぶさたに目線を上げた。
「すぐに止むかなあ」
「そのうち小ぶりにはなろうな」
「帰ったらお風呂入れないとね。こんなときに風邪引いちゃっても、困るし」
 言いながら、服の裾を絞っている。それよりも前髪を伝って流れる水滴の方が気になって、影二は無意識に手を伸ばした。濡れて額に張り付いた髪を、手の甲で掻き上げてやる。どうしてそんなことをしたのか自分でも分からないまま、するりと頬に手を滑らせた――というのは、きっと熱の籠もった手にユナの冷えた頬が心地よかったからだ。ただ、それだけだ。他意はない。おそらく、そんなものはない。
「影二……?」
 不思議そうに呼んでくる声に、見上げてくる瞳に、みだりに心を動かされたりもしない。
 優れた忍びならば――
(はたして、これは忍びの領分なのか?)
 気付いてしまって、おのれに言い含める声も沈黙する。
「……ユナ。ユナ・ナンシィ・オーエン」
 単なる気の迷いかもしれない。あるいは恋の熱に浮かされたユナに、当てられただけなのかもしれない。答えを探るように、影二は慎重に彼女の名を噛みしめた。
 例の条件反射でユナの背筋が伸びる。それを見ながらふと心に浮かんだのは、たとえばこうして髪を掻き上げてやりながら百遍でもフルネームで囁いてやったら、緊張を忘れて代わりに照れるようになるのだろうかということだった。上書きされた反応を見て困惑するビリー・カーンを想像すると、それほど悪い思いつきではないように思えた――
 いや。
(オレを理由にするなと、ビリーのやつなら言うだろうな)
 言い訳を探している自分を認めて、影二はゆっくりと口を開いた。
「お前のことを考えていた」
「え?」
 ユナはまったく予期せぬ言葉を聞いたとでも言いたげに、きょとんとしている。
「考えろと言ったのは、お前だろう」
「そう、だけど……でも……」
 それを言ったユナの方が驚いているようだった。手のぬくもりですらあたたまりきらなかった頬が、今は熱を帯びて赤く染まっている。
「そ、それで、どうだった?」
「どうもこうも……おのれが正気か分からない。お前の目を見ていると、ここが酷くざわつく。まるで熱が伝染したように……」
 興奮気味に訊ねてくる彼女に、影二は胸のあたりを押さえた。
「たとえば――」
 ユナの肩を掴み、壁に押しつける。壁とユナの体とに潰されて、濡れたリュックがぐちゃりと音を立てるのが聞こえた。構わず、わずかでも身じろぎすれば唇が触れてしまいそうな距離まで顔を寄せる――その近さにもまったく動揺していない自分を自覚すると、影二は悔しさを呑み込んで告げた。
「今は、このまま口付けを交わすこともやぶさかではない。そんな気分だ」
 ユナは目を丸くしている。その零れ落ちそうな青を見つめ、
「だが、後悔がないとも限らぬ」
「ナニ、ソレ」
「言っただろう。果たしてオレは正気なのか。おのれの感情がどこにあるか、オレ自身にも分からん。目的を果たせば答えは出るのではないかと、そんな期待もある。理由を失ってなお手放したくないと思うのか、それとも一時の熱だったと我に返るのか。男女の情を抜きにして語るなら、オレはお前のことが嫌いではないのだ。それだけは認めてやる。ぬか喜びは――」
 させたくない。
 とまで付け加えたのは、かえってユナを傷付けたかもしれない。
「そ、そっか」
「ああ」
「そんなに露骨だったかな」
「……ああ」
「困らせてごめん、ね?」
 ユナはその場で後退ろうとした――背中のリュックがいっそう押しつぶされて悲鳴を上げるだけだったが。気を遣ったつもりかさっと顔を伏せて、ついでに唇まで引き結ぶ。
「……いや。困っていないから、困っている」
 自分でも支離滅裂としか思えない一言だけを置き去りにして、影二は体を引いた。いつの間にか、雨脚は随分と弱くなっている。
「今のうちに、行くぞ。また降られたら敵わぬ」
 ユナの手を掴んで歩き出す。彼女は耳まで赤くしたまま顔を上げなかった。




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