07

 分厚いカーテンの備え付けられた部屋は、けれどたっぷりとした照明で真昼のように明るかった。踏み出すたびに爪先が沈み込む、その絨毯の柔らかさに居心地の悪さを覚えながら部屋の主にちらと視線を向ける。ビリー・カーンはユナに気付くと、ベッドの上で体を起こした。ミイラ男――とまでは言わないまでも、それに近い雰囲気ではある。脇腹の傷は塞がっていないのか、赤黒く血が滲んでいる。
「ビリー様……」
 さすがにいつものような軽口を叩く気にはなれず、ユナは押し黙ってビリーの顔を見つめた。先のKOF95’大会でさえ、こんな大怪我を負わされることのなかった彼だ。
 ビリーはユナの視線に、唇の端を少しつり上げて応じた。
「そんな顔すんな。見た目ほどは悪くない」
「すみません。わたしがもっと早く着いていたら、こんなふうには……」
「馬鹿言うな。腕っぷしの弱いお前がいたところで、変わらねえだろ。違うかよ?」
 辛辣な、それでいて優しい彼の言葉にユナはますますうなだれた。
「お言葉ですけど、先に襲われて時間を稼ぐくらいはできましたよ。奇襲じゃなければ、遅れを取るビリー様じゃないでしょう」
 言ってしまってから、自分らしくなかったなと唇を噛む。案の定、ビリーは驚いたように目を丸くした。
「なんなんだ、気味ワリぃ」
「普段強気な上司の弱った姿は、できれば見たくないんです。心臓に悪いので」
「逃げたがりがよく言うぜ」
「だとしても、優先順位はありますよ」
 薄気味悪そうな顔をしているビリーから、少し視線を外す。思ったことを言わずにいられないのは、癖というよりは一種強迫観念のようなものなのかもしれない――自分の死も他人の死も、そう遠いところにあるものではないと気付いたのはいくつの頃だったか。いつ別れるとも知れない他人への想いを、胸の内に残しておくことは恐ろしい。
「お前の中で、そんなにオレの優先順位が高いとは知らなかった」
 鼻を鳴らすような吐息とともに、ビリーが言った。
「まあ、ビリー様が思っているよりは」
「……人事評価は上げねえからな」
「えー、そこは色付けてくださいよぉ」
「むしろ下げられないだけありがたく思え。結果的にうまいこといったとはいえ、お前が如月に捕まったのは明らかなミスで誤算だったんだからな。ったく――」
 毒づきつつ、部下の軽口を聞いている場合ではないことを思い出したのだろう。
「本題だ」
 すぐに話を戻した。ユナもひとつ頷いて、顔を引き締める。
「はい。ルガールの秘書たちが」
 が。
「その話じゃねえ」
 ビリーはかぶりを振って、話を遮った。
「ギース様から連絡があった」
「ギース様から?」
 珍しい。巨大複合企業、ハワード・コネクションを束ねるギースは言うまでもなく多忙の身である。部下からの定期報告に応じるくらいのことはするだろうが、それ以外の連絡は滅多にない――とすると、サウスタウンでなにかあったのだろうか。
 眉をひそめるユナに、ビリーは頷いた。
「オロチ四天王の一人――吹き荒ぶ風のゲーニッツという男の動向が掴めたらしい。やつの目的ははっきりしねえが、捕捉するためサウスタウンに一度戻れと命じられた」
「サウスタウンに……」
 それはまた急な話だ。
「確かに、その男を掴まえて吐かせれば日本で調査を続ける必要もないんでしょうけど……それにしてもビリー様に引き揚げさせるってよっぽどですね」
「他のやつじゃ相手にならねえってだけの話だ」
 ビリーは傷口の塞がっていない脇腹を撫でながら、息を吐いた。傲慢ではない自負があるからこそ、ルガールの秘書たちに背を向けたことが口惜しいのかもしれない。
 彼はしばらくそうして傷口を見つめていたが、不意に顔を上げた。
「ユナ・ナンシィ・オーエン」
 低い声で呼ばれ、反射的に背筋が伸びる。
「お前はどうする」
「は」
 意味が分からず、ユナは訊き返した。
「どうするって……どういう意味です?」
「いや、残りたがるかと思っていたが」
「逆に、ナンデ」
 もう一度訊き返すと、ビリーは苦笑を漏らした――傷が痛むのか、頬は大きく引きつっていたが。
「分かってんだろ。お前、もう肩入れしてるどころの話じゃねえって」
「だ――」
「誰にってのもなしだ」
 ぴしゃりと言い返されて、ユナは今度こそ沈黙した。本音を探るようにじっと見つめてくるビリーの、自分と同じ青い目を見つめ返す。たっぷりと十秒。
 口を開いたのは、やはりビリーだった。
「我ながら正気の沙汰じゃねえな。選ばせてやりたい程度には情がある……ってのは」
「正気ですよ。ビリー様、ご自身が思ってるより部下想いですし」
「そういうの、やめろ。痒い」
 照れ隠しというわけでもないのか本気で痒そうに両腕を掻きむしって、ふと真顔に戻る。
「実際のところどうなんだ。如月の件は」
 誤魔化されてくれる気はないらしい。
 観念して、ユナは胸の前で両手を上げた。苦い息を吐きつつ、告げる。
「――ビリー様こそ分かっているくせに、意地の悪いこと言わないでください。確かに、わたしはニンジャに憧れてますよ。影二に肩入れしてるってのも否定しませんケド、そういう勢いで仕事辞めますとか言えるような世間知らずでもないですって。大体、影二の方だってまったくこれっぽっちもそういう雰囲気じゃなくて、ホラ、この間のハニートラップだって完全に玉砕でしたし。残ったところで共闘ごっこは終わりだって放り出されるのがオチっていうか。せっかく拾ってもらえたのに、この国でまたストリート生活に逆戻りなんてごめんですよ。わたしー……」
 耐えきれず、ぱっと俯く。
「共闘ごっこは終わり、か」
「終わりです。ちゃんとお別れできます。わたし、こう見えて結構真面目なんです」
「そうだな。お前は、意外と真面目だ」
 そのまま視線を戻さなかったため、ビリーがどんな表情をしているのかは分からなかったが。
「じゃあ、なんで訊いたんですか?」
「さあ。もしかしたらって、どっかで思ってたんだろうな」
 ユナの問いかけに、ビリーは素っ気なく答えた。

 ――明日の夕方の便で日本を発つ、か。
 ビリーと話し込んでいたら、すっかり遅くなってしまった。これから帰って部屋を引き払う準備を朝までに済ませなければいけない――そのこと自体は、そう難しくもない。予定が早まったとはいえ、短期滞在になることは元より分かっていた。家具付き賃貸で、持ち込んだものといえば旅行用のトランクにおさまる着替えとわずかな日用品、貴重品くらいのものだ。問題になるようなことは、なにもない。
「もう少し時間があったら、京たちにもお別れを言いたかったかな」
 明かりの少ない夜道を歩きながら、ユナはひとりごちた。
 無駄な時間を過ごすべきではない――ホテルの前でタクシーを拾うべきだったとは分かっていたものの、どうしても歩きたい気分だった。感傷だ。同僚以外の連れができて、なんてことのない風景に意味が生まれた。その気になればユナなどおいてさっさと行ってしまえる彼は、けれど必要がなければ隣を歩いてくれた。横を見上げると、益体のない会話に辟易するしかめ面があった。形のよい輪郭に、均整の取れた面立ちに、鋭いまなざしに、覆面の下で控えめに動く唇に――実を言えば何度も見惚れて、そのたびに腑抜けた面をするなと叱られた。
「なんて顔をしている」
 弱々しく明滅を繰り返す、切れかけた街灯の下。見慣れた人影が佇んでいる。
 ――あー……。
 なんでいるかな。
 声には出さず、ユナは如月流の忍者を見つめた。青い忍装束は暗い闇を吸って、夜によく馴染んでいる。まるでそのままあたりの風景に溶け込んでしまいそうな彼は、そこから足を踏み出すとユナの目の前で止まった。
「影二……」
「随分と遅かったな」
「ああ、うん。ビリー様と話をしてて」
「怪我は」
「軽くはないけど動けないほどでもないって感じ……かな」
「それにしては浮かない顔だが?」
「そう見える?」
 訊き返す。と、影二は困惑したようだった。
 音もなく、また気配もなく伸びてきた指先がユナの顎をついと持ち上げた。意思の強い瞳に、思わず目を逸らしたくなる。彼はそれを許してはくれなかったが。
「なにを企んでいる」
「って、そればっかだね」
「お前は隠し事が下手すぎる」
「隠そうとしたわけじゃないんだけど……」
 落ち着いた場所で言いたかったなと思いながら、ユナはひとつ息を吸った。
「あの、さ。影二」
 続きを待っている影二に告げる――なるべく声音を変えずに。
「ギース様から連絡があったんだよ」
 彼は不意を突かれたような顔をしたが、なにも言わなかった。
「オロチ四天王、だったかな。足取りが掴めたんだ。それで捕捉するために一度サウスタウンへ戻れって命令が、ビリー様に。明日の夕方には日本から引き上げることになって」
「そうか」
「うん、そう。だから、騒がしいのももう終わり。静かになるよ」
 努めて明るい声で茶化す。が、
「いいや」
 影二はかぶりを振ると、どうしてか切なげに目を細めた。
「寂しくなるな」
 湿っぽい響きを含んだ、たった一言に感情を酷く揺さぶられて、ユナは初めて動揺した。
「あの、さあ、そこはそうだなって、言ってくれないと、困っちゃうじゃん……?」
 どうにか声を絞り出す。
 何気ない会話の中で、どうしようもなく胸がいっぱいになることがあった。
「ずるい。すごく、ずるい」
 今もそうだ。
「わたしの方がずっと寂しいって思ってるのに、優しくしてくれるから嬉しくなっちゃう。いつだってそうなんだよ。暗い気持ちが長続きしないんだ。だって嬉しくて、楽しくて、ドキドキして……わたしのこと腑抜けた顔してるって言うけど、影二のせい――」
 その瞬間、すとんと腑に落ちた。いつも分からなかった。憧れの先にある空白の正体だ。答えは胸の内でなく、気圧されたような影二の瞳――そこに映る自分の顔に書かれていた。
「……隠し事、そんなに下手なつもりはなかったんだけどなあ」
 夕映えに振り返る顔と、差し出された手に恋をした。彼はずっと憧れていたニンジャ・ヒーローよりもずっと無遠慮で、乱暴で、けれど初めて握った掌は雨に濡れてしわくちゃになった紙よりずっとあたたかかった。
「こういうの、好きっていうんだね。きっと」
 吐息とともに、そっと吐き出す。聞こえたかもしれない。聞こえなかったかもしれない。少しも表情の変わらない影二の顔を見つめながら、どちらでもいいかとユナは口の中で呟いた。期待していたわけでもなければ、返事がほしかったわけでもない――影二の口から、寂しくなるという言葉を引き出せただけで十分だ。
「短い間だったけど、ありがと」
 顎に触れていた手をやんわりと押し戻して、歩き出す。
 背後から、途方に暮れたような声が聞こえてきた。
「一方的なやつだな、お前は」
「お別れってそういうものじゃないかな」
 振り返らずに、ユナは言った。影二の顔をもう一度でも見てしまえば、ビリーとの約束を破りたくなってしまいそうな気がしたからだ。

 ***

 翌日は、朝早くに部屋を出た。
 空は高く、すっきりと晴れている。目蓋の上に手をかざして、ユナは呟いた。
「雨じゃなくて、よかった」
 荷物は旅行用のスーツケースひとつに収まった。とはいえ決して軽くもないそれを引きずりながら、アパートの古びた階段を降りる。遅れて反響する自分の足音が、別の誰かのもののように聞こえて落ち着かない――頭を振って、そんな馬鹿げた妄想を追い出した。
 腰のホルダーに収まった無線機が、ザザッと音を立てる。ビリーからの通信だ。一度足を止めて応じると、もうホテルから引き上げて空港へ向かっているという話だった。
「わたしも今アパートを出たので、一本前の午前便に間に合うと思います」
「如月は」
「昨日お別れを言って、それきり」
「そうか」
 ビリーは頷くと、それ以上詮索しようとはしなかった。
「では、また後ほど」
 短い挨拶で通信を終了し、息を吐く――気まずかったことだけが理由ではない。空がわずかに暗く翳ったような気がした。見上げればいぜんとして雲ひとつない青空が広がっているが、刺すような殺気がそうと錯覚させたのだった。
 ユナは慌てて、気配の方角にスーツケースを放り投げた。相手の虚を突くにしてもお粗末な攻撃だが、抱えて逃げるには重すぎる。パスポートと財布は腰のホルダーに忍ばせている。服の替えと使い慣れた日用品のいくつかは失うが、執着するほどのものでもない。
「っていうか、誰!」
 ルガールの秘書たちだろうか。いや、まさか。わけが分からず、ユナは唇を軽く噛んだ。オロチ四天王の一件が絡んでいるというなら、ビリーを狙うのが定石だ。人質にすらならない下っ端を優先して殺すことに意味はない。ない、はずではないか?
「って、考えてる場合じゃないか」
 幸い、時間に余裕はある。今は襲撃者をどう撒いて逃げるかが重要だった。傷の塞がっていないビリーの許へつれて行くわけにはいかない。
 そうと決めて足を踏み出した、途端、爪先に触れるものがあった。地面に突き刺さった金属の塊だ。見覚えがある。それに足を取られる形で、ユナは盛大に転倒した。
「あだっ」
 両手で地面を弾いて一回転半。顔面で着地することだけはどうにか避けつつ、代わりに胸からスライディングする。下に防弾ジャケットを着ていなかったら磨り減っていたかもしれないな、と思いながら襲撃者を振り返る。
「影二!」
「油断したな。ユナ・ナンシィ・オーエン」
 まるで初めて出会った日のように、影二はユナの背中を片足で踏みつけると唇の端をつり上げた。
「なっなっなっ、ナンデ!?」
 彼の意図が分からず、叫んだ声はほとんど悲鳴じみていた。
「昨日いい感じにお別れしたよね。なんで背中踏まれてるの、わたし。おかしくない? おかしいでしょ! さすがにこれは、チョット、空気読んでって言いたくなるっていうか」
「笑止」
「って便利な言葉だよねえ!」
 足の下から抜け出そうと手足をじたばたさせるユナの背中で、影二が口を開いた。
「一晩考えて思い出したのだが」
「あの、ほんと、背骨が変な音立てて……」
「いいから黙って話を聞け」
「お、横暴……いや、ごめん。続けて」
 じろりと睨まれて、ユナは押し黙った。
「そも、お前はビリーから情報を引き出すための人質だったはずだ」
「でも、それは建前で……」
 失敗だったとたびたび頭を抱えていたのは、影二自身ではなかったか。
 うめくユナに、影二は自棄を起こしたような顔で笑った。
「確かにお前にもビリーにも貸し続きだが、長い目で見れば取り返せるかもしれぬ」
「わたしが言うのもなんだけど、それってギャンブルで負け続ける人の理論じゃないかな」
「黙れ」
 相当に痛いところを突かれたのか、短く言ってユナから無線機を取り上げる――この展開には、やはり覚えがある。
「よお、ビリー」
「――如月」
 無線機から返ってきたのはビリー・カーンの憮然とした声だった。予期していたと言わんばかりだ。あるいは、諦めが含まれているように聞こえないこともなかったが。
「嫌そうな声を出すな。元チームメイトのよしみだろう」
「そこからやるのかよ。出国手続きで忙しいから、まどろっこしいのはやめろ」
「ならば単刀直入に、貴様の手下が人質だ」
「好きにしろ。ガキじゃねえんだ。てめえのケツはてめえで拭けと言っておけ」
 どこかで聞いたことのあるやり取りが、頭の上を通り過ぎていく。通信の切れた無線機を片手で握りつぶすと、影二は鼻を鳴らした。
「だ、そうだ」
「戻るって、言ったのに」
「ハッ、上司の薄情さを恨め」
「むしろ甘すぎるくらいだよ……」
 ユナは泣き笑いのような表情で呟いて、ぐったりと力を抜いた。背中の重みはいつの間にか消えている。代わりに目の前で腰を下ろした影二が、手を差し出してきた。
「仕切り直しだ」
「うん」
 今度は――以前のようには――躊躇わなかった。握手も知らんのかと影二に言わせることもなく、その手を取る。右手で。利き手を返してしまったことを今はもう不安に思わなかった。彼は律儀にもあのときと同じように迂闊者めと言いはしたが、握り返してくる手はやはりあたたかく、どこか優しい。胸の奥が小さな悲鳴を上げるような感覚に、ユナはふっと思い出した。
「あのさ。なんていうか、催促するのはすごく気まずいんだけど……」
「なんだ?」
 すっかり忘れているらしい影二に、もごもご告げる。
「あの、言ったよね。影二のこと好きだって。お別れするから言い逃げでいいやって思ったんだけど、こんなことになったからには一応返事を訊いておきたいというか……」
 今更なのかなと期待も少し。でも、ちょっとできすぎだよねと疑う気持ちも少し。ちらりと影二を見る。掴んだユナの手を手持ちぶさたに弄んでいた彼は、曖昧に目を逸らした。
「さあな」
「さ……」
 あんまりといえば、あんまりではある。
「さあなって?!」
 愕然とするユナに、影二は気後れした顔で付け加えた。
「考えたこともなかった」
「ええー……」
 もしや、今からでもビリーの後を追いかけた方がいいのではではないかと思いつつ。
「だったら、考えてくれると嬉しいな」
 小声で告げる。それすら鼻先で笑い飛ばされてしまったらと不安に思わないではなかったが、他にできることもなくじっと影二の反応を待つ。と、彼はユナの手に視線をそそいだまま頷いた。
「――ああ」




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