06

「信じらんない信じらんない信じらんない!」

 背後には二つの殺気。どちらも死を予感させるような代物ではない――というのは、たとえば腹の満たされた猫が気紛れに鼠を怯えさせて遊ぶようなものだ。特に意味もなく爪の先で引っかけて、尖った歯で柔らかな肉を裂いて、獲物が痛みに踊り狂うさまを見て喉を鳴らして笑う。そういう種類の人間は、少なからずいる。
 ぼやきつつも足は止めず、ユナは自分がなにをすべきなのか考えていた。近くに同僚の気配はない。狩られた、と考えるのが良さそうではある。
 ――携帯している装備は特殊警棒一本、投擲用のナイフが四本。
 ?彼女たち?を相手にするには心許ない装備だ。選択肢は逃げの一択だった。そのことが、逆に幸いした。拳銃の一丁でも携帯していれば交戦も視野に入っていたはずだが。
「お前はそれで我慢しとけ」
 日本に来たとき、そう言って警棒だけを投げて寄こしたのは上司のビリー・カーンだった。彼の先見の明には感謝しなければならない。
「って言っても、ビリー様が無事かどうかも分かンないっていう……」
 今の事態はまるでホラー映画のように唐突で――そも、彼女たちの存在もなかなかにホラーじみてはいるが――発端と呼べるものに思いを馳せるならば、先日の草薙京が炎を出せなくなった一件がそれだった。以降も草薙家の監視を続け、一週間。動きがあったのは今日の昼過ぎだ。京の父親、草薙柴舟の奇妙な思いつきから始まった。もう少し好意的な見方をするなら、彼なりに息子のことを考えた結果というべきか。一昔前の映画にでも出てくるようなならず者に扮してバイクにまたがり、ユキを誘拐したのだった。
 その一件については――バイクを追って町中走り回ったことも含め――今となってはどうでもいい。問題は、騒動のさなかに闖入者が現れたことだ。公園で京と庵が再戦しているから合流するようにと、ユナが連絡を受けた後すぐに同僚との通信が途絶えた。このときは戦闘に巻き込まれたのだろうとたかをくくっていた。異変に気付いたのは、公園に着いてからだ。今思えば楽観的にすぎた。
 公園には、八神庵と様子のおかしい京の姿があった。それからユキを連れたならず者、もとい柴舟も合流して――なにかが始まるはずだった、のだろうが。
 ユナが襲撃を受けたのは、もう少し近付いて彼らの様子を窺おうとした直後だった。外野はすっこんでいろと言わんばかりのタイミングで、ユナの頭があった場所を薙いでいった、その手の爪にネイルポリッシュがほどこされていたことも幸いだったと言わなければならない。視界の端に鮮やかな緋色が映らなければ、反応は一瞬遅れていたに違いないのだから。
「それにしても、なんで……」
 首筋に感じた殺気を思い出してゾッとしながら、独りごちる。
「なんで、ルガールの秘書たちが……」
 マチュアとバイス。KOF95’大会の後にビリーが作成した報告書には、そう書かれていただろうか。ルガールの死とともに行方が知れずにいた二人が今になって姿を現したというのは、どうにも解せない話だ。それとも、今でなければならない理由があるのか。
「考え事をしている暇なんてあるのかしら?」
「速度落としたつもりなんてないのに、なにもかもお見通しって感じで嫌になるね!」
 背後から飛んできた真空の刃を、跳躍で避ける。第二波を予想して着地は最小限に。すぐ跳ねたところで、爪先に衝撃が触れた。間一髪と息を吐く暇もなく、体勢を整えてまた駆け出す。
「ほら、ほら、ほら! 怪我したくなかったら気合い入れて逃げな!」
「言われなくても気合い入れてるか、らっ!」
 怪我で済めばいいけどと胸の内で毒づいて、あたりを見回す。逃げているうちに人の少ない裏通りまで来てしまった。というよりは、そう誘導されたのだろう。投棄されていたゴミ袋をぶちまける。足止めにならないことは分かっていたが、美しい二人に少しでも不愉快な思いをさせてやれるのなら胸はすく。背後から蹴り返されたペットボトルを避けながら――ゴミ袋の中に入っていたらしい――しまったと思ったのは、ポリバケツの影から飛び出してきた小さな影に気付いてしまったからだった。猫だ。そこらにあった残飯を漁っていたのかもしれない。さっさと逃げてしまえばいいものを、驚いたように足下で硬直している。ユナは舌打ちをしながら地面を蹴ると、そのままの勢いでバランスを崩して前方へ転がった。受け身は取れただろうか。取れなかったのかもしれない。頭が痛い。猫が悲鳴を上げながら去っていく気配にいくらかは安堵して、狭い空を見上げる。そこには愉しげに唇を歪めた女たちの代わりに、
「まったく――」
 よく知った呆れ顔だ。
「え、影二!」
 ユナは声を上擦らせた。まるで、まるでヒーローじみている。なんとなく泣きたいような心地で見つめると、彼――如月影二は覆面の下の唇をほんの少しだけゆるめてみせた。
「通りがやけに騒がしいと思って来てみれば、女狐どもと鬼ごっことは」
「す、好きで鬼ごっこしてたわけじゃないよー……」
「分かっている」
 頷きつつ、助け起こしてくれるつもりはないのか早く体を起こせと爪先で蹴ってくる。その乱暴さはまったく彼らしい。あるいは、すでにルガールの秘書たちに意識を向けていたせいかもしれないが。
「あなたの目的は八神庵と草薙京だと思っていたのだけれど?」
 途端に詰まらなそうに鼻を慣らしたのは金髪の――マチュアだ。
 影二は軽く肩をすくめた。
「否定はせぬが、ビリーのやつに恩を売っておくのも悪くはない」
「とんだ元チームメイトね。わたしたちと、ここでやるつもりかしら」
「貴様らがそのつもりなら拙者は構わぬ」
「忍者風情が随分な自信じゃないか」
 バイスが好戦的に構え直す。が、それを押しとどめたのはマチュアだった。
「やめておくわ」
「マチュア――」
 相棒の非難がましげな視線を受け流し、あっさりかぶりを振る。
「まずは草薙京の戦いを見届けないといけないもの。そこの小ネズミちゃんはともかく、彼と遊んでいる時間はないでしょう?」
 と言われると、バイスも不承不承頷いた。それきり捨て台詞さえ残さず引き返して行く。彼女たちの後ろ姿が完全に見えなくなった頃、ユナはようやく息を吐いた。
「影二、ありがと。助かった」
 突拍子もないことを言ったつもりはなかったが、どうしてか影二は面食らったようだ。目が合うと、彼はほんの少しだけ眉間に皺を寄せてふいとそっぽを向いた。
「かまわん」
 かといって不機嫌なわけでもないらしい。
「……怪我はないか」
 と、心なしか決まり悪げに訊いてくる。
「うん、おかげさまで。でも、またビリー様に怒られちゃうなあ」
 その奇妙さに触れるのはなんとなく悪いような気がして、ユナは話題を変えることにした。頬を掻きつつ、努めて情けない表情を作る。が――
「ビリーなら、真っ先に襲われて撤退したぞ」
「は?」
 何事もなかったかのように爆弾を投げてよこした彼に、思わず訊き返す。
「聞いてない。ビリー様、無事なの?」
「知らぬ。部下に引きずられて行くのは見たが」
「って、また他人事みたいに言うし……」
「ビリーとオレはまさしく他人だ」
「確かに」
 と、納得している場合でもないのだろうが。
 ひとまず落ち着こうと深呼吸して、気付く。
「もしかして、さ。ビリー様が襲われたの見て、わたしのこと探してくれたとか?」
「恩の売りどきだった、と言ったはずだが」
「うう、ツケておいて」
「赤字でそのうち首が回らなくなりそうだな」
「そしたらわたしの内臓でも買ってよ」
 冗談めかしながらシャツを軽くはたく。地面が汚れていたせいで、あちこち染みだらけだ。クリーニングに出しても綺麗にはならないかもしれない。
「とりあえず着替えてからビリー様の様子を見に行こうと思うんだけど、影二も行く?」
「いや、公園に戻る」
「ルガールの秘書たちがいるのに?」
「オレは、ビリーのように下手は打たん」
「ビリー様は下手を打つわけじゃなくて、運が悪いだけなんだよ」
 そこだけはフォローして、ユナはそっと嘆息した。影二はなにか言いたげな顔をしたが、議論するような話題ではないと判断したのかもしれない。なるほどと気のない声で頷くと、その場からすっと姿を掻き消した。
「ビリーのやつに、なにか隠し事がないか聞いておけ。夜にまた行く」
「分かったって答えていいのかなあ、これ」
 耳許で聞こえた声にぐったりと答え、もう一度だけ空を仰ぐ。不意に強く吹いた風に目を瞑りつつ、慌ただしくなりそうだと予感せずにはいられなかった。
 
 ***

 話は、前日に遡る。

「で――なんのつもりだ、ビリー・カーン」
 影二がじろりと睨むと、店の椅子に腰掛けた男は面倒くさそうに目を上げた。
「と、言うと?」
 まるで心当たりがないとでも言いたげではないか。しらを切るつもりか、はたまた馬鹿げた思いつきのことなど本当に忘れてしまっているのか――判断しかねて、影二は告げた。
「ユナの件だ」
「あいつがてめえに手間かけさせるのなんて、今に始まった話じゃねえだろ」
「さすが、手下にハニートラップを命じる上司は面の皮が厚い」
 皮肉で刺す。
 が、ビリーは堪えなかったようだ。
「なんの話かと思えば、大袈裟なやつだな」
「拙者に言うことは、それだけか?」
「他になにが望みだ? 悪かったとでも言って、しおらしくしてやりゃ満足かよ」
 薄く笑って開き直る始末である。
「謝れとは言わんが、馬鹿なことはさせるな」
「てめえに言われる筋合いもねえけどな」
 実際、ビリーの言うとおりではあるのだろう。挑発されているというよりは理不尽を責められているように感じて、影二は鼻白んだ。
 もう興味も失った顔で視線を自分の指先に戻しながら、ビリーが続けてくる。
「誰が上司だか分かりゃしねえ」
「手下を取られた泣き言か?」
「取った自覚があるあたり、たちがワリい」
「は?」
 そう返されるとは思わなかったため、思わず間抜けな声を上げてしまった。地雷を踏み抜いてしまったような、なにか気味の悪いものに触れてしまったような、そんな心地でビリーの顔を見る。と、彼も自分の言葉選びがまずかったことに気付いたらしい。
「ビジネスの話だ」
 簡潔に言って、指の先でテーブルを叩いた。癖なのかもしれない。物分かりの悪い部下に根気よく言い聞かせるような、そんな仕草だ。コツ、と乾いた音が響く。
「なるほど」
 ようやく心得て、影二は唇を歪ませた。
「取るに足らない損失まで補填させようとは、またチンピラらしい強欲さだ」
「嫌みを言いに来たってこたぁ、多少は効いたわけか」
「まさか」
「だったらてめえはなにしに来たんだ――って、これ前も言った気がするな」
 皮肉を倍で返されて、言葉に詰まる。一方のビリーもそれを特に面白がるといった様子ではなく、むしろうんざりと嘆息してみせた。
「ったく、どいつもこいつも腑抜けすぎだ。この国の空気も悪い」
「サウスタウンが恋しいか?」
「そういう話でもねえんだよ。てめえは他人事だろうが……」
 かつては狂犬のように呼ばれた男が、すっかり組織人じみている。馬鹿にされているようにも、あるいは少なからず羨まれているようにも感じて、影二は彼をまじまじと見つめた。視線に気付いたビリーが、顔の前で手を振った。そこへ微かに浮かんでいた懊悩も、すっと掻き消える――
「まあ、いい。なんにしても今のところは順調だ。あれだけプライドを折ってやれば草薙も数日中に動くだろうし、てめえにしても――オレが思っていたよりよっぽどユナがうまくやってるってことが分かった。礼を言うぜ、如月」
 挑発でしめくくった彼に、影二はなんとなく白けた心地で言い返した。
「まるで自分の手の内だと言わんばかりだが、それで勝ったつもりになるなら……」
「やるか?」
「いいや。やらずとも、別のものに足下をすくわれるのだろうな」

 予言したつもりはなかったが――ビリーがルガールの秘書たちに急襲されたことを思えば――結果的にはまったくそのとおりになってしまったと言える。
 とはいえ、ざまあみろと言う気分にもなれず、影二は憂鬱に溜息を零した。時刻は二十一時。ユナの借りているアパートである。部屋の中は無人で、電気も消えていた。
「ビリーのやつ、よっぽどの怪我だったのか」
 騒がしいユナのいない部屋を改めて見回すと思いのほか家具は少ない。そのことに奇妙な親近感と居心地のよさを感じてしまった決まりの悪さを誤魔化すように、影二はソファに寝転がって暗い天井を見上げた。




TOP