虚妄のスープ

 ビリー・カーンは困惑していた。
 滞在先のホテルではなく、質素なアパートの一室である。ユナ・ナンシィ・オーエン。それが部屋の借り主であり、部下である女の通り名だった――本人はそれを名前として扱っている節があるが、そうと認めて名付け親にされてしまうのはなんとなく気が引けるビリーである。
 彼女には名前がない。
 ジェーン・ドゥ。つまり、名無しと呼ばれ続けてきたのだと聞いている。大層な経歴があるわけではなく、単純に自分の名前すら知らない孤児だっただけだということも。それは別段、珍しい話ではない。貧民街に住み着いたストレートチルドレンとは大抵、そういうものだ。辛うじて名前を持ってそこに流れ着いたか、名付けてくれるような面倒見の良い仲間に出会えたか、自分から名乗り始めたか。その程度の違いしかない。
 名無しでは面白味がないからとひねりを利かせたつもりが、そのまま彼女の名前として定着してしまったことにビリー自身は困惑している。多少なり後悔していると言ってもいいのかもしれない。無機物でさえ、名を付ければ有象無象のひとつではなくなる。名前を持つ特別なひとつになる。それが人なら、まあ情も移る。
 ユナを贔屓しているつもりはないものの、それでもなんとなく目をかけてしまっている自覚がビリーにはあった。如月影二の同盟者兼監視役としてユナにある程度の自由を許しているのも、特別扱いと言われれば特別扱いになるのだろう。
 それはともかく。
 アパートを訪ねたのは抜き打ち監査のつもりだった。影二との関係上、ユナには一人で部屋を取らせる形になったが、かといって上司の目が届かない場所で好き放題羽を伸ばされても困る――そういう名目だ。中身のない雑務に煩わされることにも多少は慣れた、それが肩書きの重さというものだと割り切るようになって何年経ったか。
 しみじみ回想に逃避したくもなる。
 テーブルの上には夕食。なぜ。いや、夕食がまだだという話は確かにした。ケータリングでも頼むかと思っていたら、目の前には食事が並んでいた。ガチャガチャした柄のランチマットに、ライスと魚のグリル焼き、和風のオムレット、そしてスープ。旅館の朝食かと言いたくなるようなメニューを前に、ユナは手伝いを覚えたばかりの子供のように胸を張ってこう言ったのだ。
「わたしが作ったんですよ、ビリー様!」
「なるほど……?」
 としか言いようがなく、ビリーは箸でおそるおそる焼き魚をひっくり返した。自炊の自の字も知らなかったようなユナに、どんな心境の変化があったというのか――彼女はストリートチルドレン特有のサバイバル力こそあるものの、だからこそと言うべきか家庭料理の類とはまったく縁がなかったはずだ――見た感じ、体に毒ということもなさそうだが。
「影二が教えてくれたんです」
「へえ。そりゃ……」
 よかったな。と、言うべきなのだろうか。判断が付かず、ビリーは視線だけでユナの表情を仰ぎ見た。彼女は穏やかに目を細めている。珍しい。
「食べてくださいよー」
「……如月が教えたなら、食ったところで腹を壊すこともねえか」
 呟き、椀の中身を箸でぐるりとかき混ぜる。豆のペーストを溶かした湯に、海草と賽の目切りにした豆腐――これも豆のタンパク質を凝固させたものだ。アジア人の豆好きは異常だと、ビリーは思う(偏見である自覚も少なからずあるが)――を加えたスープ。立ち上る味噌の香りに、ビリーはわずかに顔をしかめた。その素朴さはどうにも馴染まない。家庭料理に分類される和食全般に言えることだ。ユナが「作法が分からないから」と敬遠する、寿司や本膳料理の方が余程いい。
 とはいえ料理そのものが嫌いなわけでもないので、ビリーは黙って味噌汁を口に含んだ。
「まずくはねえ」
「もう一声」
「如月の教え方が良かったんだろうな」
「わー……ビリー様も影二と同じこと言うー……」
 影二、影二、影二。まるで家族か恋人の話でもするような口ぶりではないか?
「……適当なところでやめておけよ」
 味噌汁を飲み干して、ビリーは吐く息とともに呟いた。
「ナニがです?」
 きょとんと訊ねてくるユナに、かぶりを振りつつ告げる。
「採算の問題だ。利用価値があるうちはいい。こっちの動向がある程度筒抜けになってることを差し引いても、釣りが来る。余計な揉め事は減ったし……」
 お前に振り回されて右往左往する如月を見るのも愉快ではある――と、言いかけて口を噤む。それを言うなら影二の方こそ「ビリー・カーンの上司面も見物だ」と、内心嗤っているに違いない。
「ビリー様?」
「ああ、いや、逆にお前が肩入れしすぎりゃ赤字になるって話だ」
 つまり、それだけだ。そう難しいことを言ったつもりもないのだが、ユナは怪訝そうに眉をひそめている。あの気難しい忍者に肩入れしている自覚がまったくないようだ。
 こりゃ重症だな。
 もう一度、こっそり息を吐く。彼女が恋だの愛だのを知らないことだけが幸いだった。憧憬と恋情の境界はこと異性間において曖昧になりがちだが、空白の感情にはすり替えようがない。
 考えながら知らず眉間に皺を寄せてしまっていたらしい。
「美味しくありませんか、ビリー様」
「いや、美味い。美味いが好きになれない。そういうのって、あンだろ」
「そりゃ、あるんでしょうけど」
 やはりぴんとこない様子のユナを眺めながら、ビリーは卵焼きを口の中に押し込んだ。味わう気にはなれなかった。卵料理は好きだ。けれど、これはよくない。少なくとも仕事のことを考えているときに食べるようなものではない。舌先に残る甘さに、なんとなく妹の顔を思い出してしまう。
「ところで、ビリー様」
 静かに食べさせてくれる気はないのか、ユナが声をかけてくる。
 おかげでふっと湧いた郷愁も一瞬にして霧散したが――
「なんだよ」
「毎日お味噌汁作るねって台詞、この国だとなにか意味があるんですか?」
「あ?」
「軽々しく言うなって、影二に注意されたんです。でも理由は教えてくれないし、ビリー様にも訊くなって。まあ、訊いちゃったわけですけど……」
「訊いちゃったわけですけどって、お前」
 代わりに軽い爆弾を渡されたような心地で、ビリーはうめいた。
「お前のそういうところ、部下としては信頼できるが人としてどうかと思う」
「わーい、珍しく褒められた!」
「褒めてねえ。いや、でも部下として問題ないなら別にいいのか。どっちだ。お前と話してると、時々わけ分からなくなるんだよな。くそ……」
 如月のやつもそうなんだろうなと呟いたところで、ビリーはふと気付いて顔を上げた。
「ああ、そうか。先に仕掛けるって手もありか」
「はい?」
 首を傾げているユナの、頭の天辺から爪先までを眺める。上司の贔屓目を差し引いても、辛うじて女としての体裁は整っている。少なくとも訓練で引き絞れた腰回りと、無防備な胸元には年相応の女らしさがある。たとえば極端に色気を欠く呑気そうな顔だとかは、この際問題ではない。いざとなったら布でもかぶせておけばいい。
「お前、如月をたらし込め。弱みを握れ」
「えっ、ナニ? たらし……?」
「如月も男だ。きわどい恰好で迫れば間違いのひとつやふたつ――」
 口に出してみると、なんだか急に自分が無茶を言っているような気にもなってくるのだが。ビリーは頭を振って弱気を追い出すと、顔を引きつらせている部下に親指を立てた。
「とりあえず、やってみろ。駄目で損するわけでもねえし」
「ええ……」

蜂蜜色の嘘

 そういうことになってしまった。
「いやいやいや、駄目で損するわけでもねえし――って」
 そりゃあビリー様は損しないだろうけど……と、ユナは口の中で呟いた。無茶ぶりをした当の上司は食事と雑談を済ませ、さっさと帰ってしまった。食器を洗い終えたユナは、ソファの上に転がって一人うんうんとうなっていたのだった。
 ちらりと時計を見る。もう三十分もすれば二十一時になる――その時間でユナの同僚と交代することになっているため――草薙邸の監視を切り上げて、影二がやってくる時間だ。口を開けば相変わらず辛辣な彼だが、夕食くらい一緒に取るという約束だけは律儀に守ってくれている。
「うー……やだな。影二のこと騙したくないなあ。騙せるとも思えないし……」
 きわどい恰好で迫れば――とビリーは言ったが。起き上がって、クローゼットを開けてみる。衣装ケースの中は見慣れたワイシャツとスラックスが替えも含めて数枚、あとはTシャツとパーカー、トレーニング用のタンクトップとショートパンツ。それから下着。最低限しか手持ちがないのは仕事で日本を訪れていることだけが理由ではなく、単純に必要なもの以外なにを買えばいいのか分からないからだ。
「……下着っていうのは、怒られるよね。影二に」
 手持ちの中でも比較的派手な(同僚に贈られたのだ)レースのあしらわれた黒のショーツとブラジャーとをつまみ上げてみる。慎みがないと目をつり上げる影二の顔が浮かんだ。却下と呟きながら、下着を衣装ケースの奥に押し込む。と、
「誰が怒ると?」
 背後に気配を感じて、ユナは勢いよく振り返った。いつの間にかベランダの窓が開いている――影二だ。彼はユナの手元を見ると一瞬だけぎょっとしたような顔をしたが、すぐに素知らぬ顔で続けてきた。
「さて、ビリーのやつがなにを企んでいるのか教えてもらおうか」
「いや、企むっていうか……」
「いいから、言え」
 じろりと睨まれて、ユナは嘆息した。内心ビリーを恨まずにはいられなかった。
「つまり、さ」
 とりあえず上司にも義理立てしておくつもりで、目の前にある影二の体にひょいと両腕を回してみる。彼は驚いたようだが振り払いはしなかった。そのことを意外に思いながら、近くなった耳許で囁く。
「ハニートラップ。無茶苦茶だよね。駄目元でもやってみろって。どう?」
 我ながら、どうもこうもない――と、笑って離れようとしたところで。
「ユナ」
 ともすれば傲慢にも聞こえる影二の声が、ユナの鼓膜をかすかに振るわせた。一瞬、体が硬直する。怒らせたかな、と思ったときにはもう手首を掴まれている。そこから投げ飛ばされるか、いつかの折のように組み伏せられて背中を踏まれてもおかしくはない状況だった。少なくともユナはそう予感した。
 それから、目を瞑って痛みをやり過ごす覚悟も。
「…………」
 一秒、二秒、三秒。
 なにも起きないことを訝って、ゆっくり目を開く。目の前に影二の顔があった。そのことに驚きつつ。一方でなんともありふれた展開だと込み上げた笑いは、けれどそのまま喉の奥で消えた。見下ろしてくる影二の瞳がゆらりと熱を帯びていることに気付いてしまった。投げ飛ばされるよりも、なお悪い。
「ええと、影二?」
「仕掛けてきたのは、お前だろう」
 やや湿っぽさを含んだ吐息が、シャツの間から覗く鎖骨の間を掠めていった。普段ならくすぐったがって身をよじるところだ。けれど、どうしてか。背中のあたりがぞくりと粟立った。恐怖ともまた違う。奇妙な感覚に、心臓が忙しなく跳ねる。
「あの、手首、爪、痛い」
「直に手首の痛みどころではなくなる」
 たどたどしい訴えをにこりともせず一蹴すると、影二は近くにあったソファにユナを引き倒した。ずしりと上から覆い被さってくる男の重みと緊張で、息が詰まる。シャツの上から腹のあたりを撫でる手は変わらず武骨なはずなのに、やはりどうしてかいつもと違うのだ。それから熱のない、かさついた唇が喉のあたりに触れてきて――
「えい、じ……?」
 次の瞬間。
 喉笛に思い切り歯を立てられて、ユナは悲鳴を上げた。
「ぎゃ!」
「色気がない」
「色気もなにも、だって、思いっきりガブって! ガブって!」
 ぞっとして影二の顔を見上げると、彼は唇を歪めて人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「色で仕掛けるのは忍びの十八番だ。お前では話にならん――と、ビリーには言っておけ」
 ぱっと離れて、もういつもの影二に戻っている。
「え、影二らしいや」
 ユナは胸を撫で下ろし、思い出したように両手で喉のあたりに触れた。意地の悪い忍者の唾液で濡れたそこを指先でおそるおそる探る――くっきりと歯形が残っている。
「本気で食いちぎられるかと思った……」
「警告は本気の一歩手前でなければ意味がないからな」
 影二は冗談とも本気ともつかない調子で言うと、無造作にユナの手首に触れてきた。ほんの少し顔をしかめたのは、爪が食い込みすぎて皮が剥けているのを見つけたためだろう。
「救急箱を持ってこい。手当てくらいはしてやる」
「血は出てないから大丈夫だよ。自業自得っちゃ自業自得だし――」
「ごねるな。早く行け」
 面倒くさそうな横顔を見るに、体よく追い払おうとしているだけなのかもしれないが。
「はあい。あ、いいタイミングで見つけてくれてありがと」
「は?」
「おかげで変なことせずに済んだ。ああいうの、やっぱよくないじゃん?」
 忘れる前にそれだけは告げて、ユナは洗面所に向かった。

嘘喰う忍者のひとりごと

 彼女の背中がドアの向こうに消えたのを確認してから、影二は息を吐いた。
 この舌先に残った体温と柔らかな肌の感触をどうしたものか。鼻先に触れた女の匂いをどうしたものか。感情揺らめく青の瞳――一瞬、本気で怯んでいた。狩られることを悟った小動物のような瞳は、目蓋の裏にはっきりと焼き付いている。どうしたものか。いずれも思い出そうとすれば胸の奥が酷く疼く。恋情などというような気の抜けた代物ではなく、もっと単純な衝動だった。
 男に生まれた以上、こればかりはどうにもならんな。
 と、いくらか忌々しい心地でひとりごちる。無論のこと理性で抑え込むのはそう難しいことではないが、そのままあっさり記憶から消せるものでもない――そういうものだ。
「まったく……」
 洗面所から聞こえてくる騒音に、影二は顔をしかめた。救急箱が見つからないのか、ユナは収納扉や引き出しを片っ端から開け閉めしているようだ。
 喉元を過ぎればなんとやらとは言っても、切り替えが早い。早すぎやしないか。
「……もう少し脅しつけてやった方が、本人のためだったか」
 ぶつぶつ呟きながら、ソファに腰を下ろす。なんの気もなしに体の横に手をつくと、座面はまだほんのりとあたたかい。
 まるで体の内側で燻り続ける熱のようだ。そんなふうに錯覚した自分に気付いて、影二は目を瞑り目蓋の上から掌で押さえた。無性に、ビリーに文句を言いたい気分だった。




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