04

 草薙京が炎を出せなくなった。

 この事実を、ユナは如月影二より一足早く知っていた。というのも、影二が草薙邸で柴舟と話をしている間、上司のビリー・カーンに呼びつけられて夜の山道で京を追っていたためである――前日、京は一般人に負けた。発端は、彼と同じ高校に通う柔道部キャプテンの前田たかやがユキに恋をしたことだ。チームメイトだった大門五郎が間に入って(大学で柔道の講師をしている彼は、件の柔道部キャプテンをスカウトしにきたらしい)一本取った方がユキを手にしたらどうかと、二人にそう持ちかけた。それはもちろん、前途有望な前田少年に発破をかける意味もあっただろう。元チームメイトの京に、ユキとの関係の進展を促す意味もあっただろう。いずれにせよ前田少年以外の誰も、京が負けるとは思わなかった。だからこそのふざけた賭けだった。にもかかわらず、京は彼を知る人からしたらあっさりすぎるほど、あっさり前田に一本を許した――一件を知ったビリーが、京の不調はどの程度のものかと確かめたがったのだ。
 結果、京はビリーを相手に二度目の敗北を喫した。炎が、まったく出ない。前日の勝負が精神に少なからず影響を及ぼしたことは間違いないが、そのことに誰より京自身が一番驚いているように見えた。
 一方のビリーは、愕然とする京に超火炎旋風棍を叩きつけると侮蔑を投げて去ったのだった。ユナは酷く気まずい心地でビリーの後を追い、あとからアパートで合流した影二に一部始終を説明しなければならなかった。もっとも影二の方は、前田の一件である程度予想はしていたらしい。然程、驚く様子はなかったが。
 それから数日。草薙邸周辺を監視していた影二に静が言った。「忍者さん、今夜一緒にお食事でもいかが? 相棒さんも誘って」と。言葉少なに落ち込む息子を見て、思うところがあったのかもしれない。影二も静を相手にするとどうにも弱いらしく、
「いやいやいや、まずいデショ。影二はともかくさー、わたしは駄目だよ。思いっきり現場にいたもん。ビリー様の代わりに殺されちゃうし、殺されなくても気まずいよ!」
 と、全力で拒否するユナを半ば無理やり引きずって邸の門をくぐった。
 
「なんでお前がいるんだよ」
 京の第一声に、ユナは頬を引きつらせた。ガスコンロと鍋の載ったちゃぶ台を囲んでいるのは、草薙夫妻と京、そして影二とユナ自身――いつも京の傍にいる麻宮アテナや椎拳崇の姿は、どうしたわけかこの場にない。
「だ、だよねえ。なんでだろうねえ。不思議だねえ」
「あの夜のことを忘れたとは言わせねえぞ」
「いや、忘れたって言えるだけの図太さがあったらこんなに怯えてないっていうか……」
 ねえ、影二。と、元凶の忍者を見上げる。
 影二は素知らぬ顔で静に手土産を渡していたが、ユナの視線に気付くと渋々体の向きを変えた。不機嫌な京をちらりと一瞥し――
「ふっ。小さいぞ、草薙京」
「影二、なんで煽ったの!?」
「いや、煽ったつもりはない」
 嘯くが、挑発しているのは明白だ。
「影二てめえ……!」
 京の目がつり上がる。一触即発の雰囲気に、ユナは慌てて静の着物の袖を引いた。
「あばばばば……京のママ……」
「あら。少しは元気が出てきたみたいでよかった、京」
「京ママ!?」
 さすが京を育てた人というべきか、なんというか。見れば柴舟も狼狽えるなと言わんばかりに鍋の中に野菜と茸、鶏肉、そして肉団子のようなものを突っ込んでいる。
「菜の花や蓮根つくねは馴染みがないかしら?」
 困惑するユナに、静がにっこり笑った。
「あ、ハイ。でも、食べられないものはないので」
「そう」
「ていうか、京……」
「家でもほとんど話さなかったから、怒る元気が出てくれただけ前進でしょう?」
 言って、片目を瞑ってみせる。
「……ごめんなさい」
「どうしてあなたが謝るの」
「だって京が落ち込んでるの、わたしも無関係ってわけじゃないし。親からしてみれば、子供のこといろいろ嗅ぎ回られるのもあんまいい気しないかなって」
 ユナはぼそぼそ呟いた――もしや彼女たちは京から事情を聞いていないのだろうか。だとすれば、ますます気分はよくない。まるで騙しているみたいで。
「あの」
「気にしないで頂戴」
 迷った末に説明しようとすると、静はやんわりそれを制した。ついと巡らせた視線を京の上で留める。なんとなく胸がざわつくような、優しい瞳だった。たじろぐユナに、彼女は京には聞こえないほどの小さな声で「信じているから」とひとこと。
 それで、ユナは納得した。なるほど、草薙夫妻にとってこれはどうということもない事件なのだ。彼らは成長の過程に訪れる困難のひとつとして、京の苦境を受け入れている。京がそれを当然乗り越えるものと信じ、見守っている。
 ――親の鑑だね。
 そう思いながらも京を羨んでしまった自分に気付いて、ユナは小さくかぶりを振った。
「京ママ、手伝うことある? せめてものお詫びに、なにかさせて」
 なんとなくもじもじしながら訊ねると、静は少し迷ったようだったが。
「そうね。取り皿を並べてくださる?」
 ちゃぶ台の上に重ねられた皿に目をやって――いくらか申し訳なさそうに――そう言ってくれた。彼女にしてみれば、客に饗応の支度を手伝わせることは不本意だったのだろう。それでもユナの意を汲んで、ささやかな仕事をひとつくれたのだった。
 その優しさに甘えることにして、ユナは大きく頷いた。
「任せて!」
 声に驚いたらしい京が、影二と睨み合うのをやめて振り返ってくる。
「な、なんだ?」
「一時休戦ってやつだよ、京。ご飯たくさん食べて、おっきくならないとね!」
「わけ分かんねえ。こいつなんなんだよ、影二」
「考えるだけ無駄だ。ビリーも手を焼いているくらいだからな」
 本気で頭を抱えている京に、影二が素っ気なく呟いた。

 鍋の蓋を開けると、湯気とともに爽やかな柑橘系の香りが部屋いっぱいに満ちた。
 鶏ガラのスープにキャベツと菜の花、水菜、豆腐、シメジ、鶏肉、蓮根つくね――と、旬の具材が綺麗に並んでいる。香り付けに柚子の皮も添えられて、見た目にも春らしい。
 静が皿に取り分けるや、いただきますの挨拶もそこそこに柴舟と影二が競って食べ出した。影二がそんなふうにがっついて食事を取るのを見るのは初めてで、ユナはぽかんと口を開けてしまった。二人はあっという間に皿を空にして、
「おかわり」
「おかわり」
 声を揃え、静に皿を突き出している。京はその光景にも慣れた様子で黙々と箸を進めていたが、硬直しているユナに気付くとぶっきらぼうに言った。
「お前も早く食わないと、あっという間になくなるぞ」
「あ。うん」
 ぎこちなく頷いて皿を見ると、なんだか豆腐が増えている。
「アレ?」
「おい、忍者! 小娘の皿に豆腐を入れて、自分は肉ばかり食うんじゃあない!」
 箸で指して指摘する柴舟に、影二はつんと顎を反らした。
「豆腐は良質なタンパク源で、美容にもよい」
「いいケド。お豆腐美味しいし……」
「そんなお前には、これもくれてやる」
 子供じみた言い訳をした自覚はあったのか、つくねもぽいぽいと入れてくる。
「わわわ、零れる!」
「食え」
「って、人んちの飯食いながらよく言えるよな」
「はっ。格闘家たるもの、正しい食生活でこそ強い肉体を得るのだからな」
「だから人んちで飯たかりながら言うことじゃねえだろ」
 京と影二の言い合いをBGMに、いつの間にか気まずい空気も消え去っている。ほっと胸をなで下ろし、ユナはレンゲで豆腐をすくった。口に入れると、淡白すぎない鶏ガラのスープに豆の風味がかすかに溶けたやわらかな味が広がる。
「美味しい」
「だろう?」
 ニヤリと笑って、柴舟。
「静の作る飯は美味い。豆腐の一口でそれが分かるとは、小娘なかなか見所が……」
「やめてください。ただのお鍋ですよ」
 しかし、のろけもぴしゃりと一言で一蹴される。どことなく寂しそうな柴舟を横目に、ユナはどうにか残りを平らげた(食べるそばから影二が具材を放り込んでくるので、いつまで経っても終わらなかったのだ)
「ごちそーさまでした! こんな美味しいご飯が食べられるなら、わたしも京ママの子供に生まれたかったなー。あ、京とケッコンしたら京ママの子供になれるのかー」
 心地の良い満腹感に眠気さえ感じる。気分良く冗談めかすユナに、京はうんざりと額を押さえてうめいた。
「やめろ。お前みたいな変な女、勘弁してくれ」
「変な女とはまた遠回しな。京、この女ははっきり言ってやらんと分からぬぞ」
「影二!?」
 そんな生ぬるいやり取りに柴舟が鼻を慣らし、静が唇を笑みの形にする。彼らの顔は、どこか安堵しているようにも見えた。でなければ、多少なりとも調子を取り戻した息子を見て喜んでいたのか――その光景を見つめていると、影二がぐいと腕を引いた。
「長居をするのも礼を欠く。そろそろ行くか」
「あ、ああ。うん」
 急にもっともらしいことを言い出した彼に、少なからず戸惑いながら。
「ごちそうさまでした。京ママ、京パパ。あと、京も」
「あとってなんだよ、あとって」
「母君、ご馳走様であった」
 丁寧に頭を下げる影二に倣い、ユナも慌てて会釈した。
「またいらしてね」
 リップサービスというわけでもないらしく、外まで見送りに来た静も、どこか名残惜しげではあった。その後ろでは京が(こちらは見送りというより、母親を心配したのだろう)不機嫌そうに鼻の頭へ皺を寄せていたが。ユナは、彼に告げた。
「うん。今度はお土産も持ってくるよ」
「来るな! お前といい影二といい、厚かましいんだよ!」
 こめかみに血管を浮かせながら、人差し指を突きつけてくる。そんな京を、静がたしなめた。人を指しちゃ駄目って言ってるでしょ。と、まるで幼い子供のように叱りつけられて、京ががっくりと肩を落とす。
「行くぞ」
 彼らのやり取りを――飽きることもなく――眺めていたユナは、影二の声で我に返った。
「ああ、うん、そうだった!」
「お前らって、なんだかんだ連れ立って仲良いよな。今更だが、なんなんだそれ」
 京の問いかけを無視してさっさと歩き出した影二の後を、小走りに追いかける。

「なんなんだ、か」
 もうすっかり暗くなった夜道を足早に歩きながら、影二が呟いている。
「なんなのだろうな」
 ようやく隣へ並んだところで急に声をかけられたため、反応が遅れた。横目で見上げるユナに、彼はもう一度言った。
「なんなのだろうな、お前は」
「改めて訊かれると困るんだけど、人質?」
「――のわりに、なんの恩恵もないことに気付いてしまったのだが、オレは」
「エート……」
「むしろ、体よくお前の子守をさせられているような気さえする」
「気のせいだよ。ほら、わたしがいればビリー様といつでも連絡付くし、雨の日も寝る場所に困らなくて便利。あと独り言に飽きたときの話し相手にもなれる、みたいな……」
「自分で言って虚しくならんのか」
「アハハ」
 だって本気で他にメリットらしいメリットなんてないじゃん。とは、口の中で呟くにとどめる。影二の言うとおり、彼の方が子守をしているようなものだ。同僚の何人かが京、もしくは庵の尾行に失敗して病院送りになっていることを思えば。
「まあ、いい」
 少し考える素振りをして、影二は嘆息した。
「利用価値がないからもういらん、と言ったところで監視を続けていれば顔を突き合わせるのは必定。そのたびに牽制し合うだけ時間の無駄だ。このままでいい」
「あ、顔を合わせるたびに構ってくれる気はあるんだ」
「……一度邂逅してしまったがゆえに今後一生構うだの構わんだの間抜けな言い方をされるのかと思うと、あのとき軽率に先制を食らわした己を恨まずにはおれん」
「わたしねー、それ日本語でナンテ言うのか知ってるよ。後悔先に立たずとか、覆水盆に返らずとか。影二が難しい言葉ばっかり使うから、勉強してんの。健気でしょ?」
 その瞬間、影二が(ものすごく)嫌そうな顔をしたことには気付かないふりをしておく。ユナは素知らぬ顔で、彼の隣を跳ねるように歩いた。気を抜けば歌の一曲でも口ずさんでしまいそうなほど上機嫌な夜に、つい口も滑り――
「やっぱ賑やかな食事は楽しいね。ねえ、影二」
「なんだ」
「影二がしょっちゅう京の家にご飯を食べに行くのってさ……」
 一度足を止め、影二を見上げる。視線が交わる。口を開いたのは同時だった。
「母君に招かれるからだが?」
「影二もああいうの、憧れるの?」
 声が重なった瞬間に、ユナはすっと我に返った。やってしまった。明け透けすぎた。影二も面食らったように、目を大きく開いている。は、は、は、と喉の奥から乾いた笑いを絞り出して、ユナは足を踏み出した。爪先に引っかかった小さな小石が、静寂にかすかな音を響かせながら遠くまで転がっていった。
 その音も気まずい。酷く、気まずい。
「わたしは、憧れてたんだよ」
 誤魔化しようもなく――努めて明るく、ユナは言った。
「白い小さな家にさ、パパとママとわたしがいる。庭には大きな木とハンドメイドのブランコがあって、ゴールデンレトリバーかドーベルマンを飼ってるんだ。で、おやつはママが作った二段重ねのパンケーキ。たっぷりのシロップとバターが載ったやつ。わたしはそれをぺろっと食べて、もう一枚ちょーだいってねだるんだけど、ママは夕飯が食べられなくなるからダメだって言う。拗ねるわたしに、パパが?ママには内緒だよ?って自分のを一切れくれてさ……」
 暗がりに、スクリーンを一枚思い浮かべる。そこに映るセピア色の丘とレトロな一軒家はユナ自身ではなく、名前も知らない映像作家が描き上げた光景だ。古い映画館の債権回収をした際に観た――スクリーンにかぶさるようにして首を吊っていたオーナーの姿もなかなかに衝撃的で、今も覚えている。
「陳腐な妄想だ」
 たった一言で切り捨てる遊びのなさは、影二らしい。まったくぶれることのない彼を羨ましく思って、ユナは少し目を細めた。
「うん。自分でも笑っちゃうくらい想像力がないんだけどさ。でも」
 小声で呟いて、影二を見る。星のない夜空よりも暗い色の瞳は、意思の強さでもってなによりも美しく輝いている。いつまでも眺めていたい一方で後ろめたさのようなものも感じて、ユナはふっと顔を伏せた。
「今日のは、少し近かった。このあたりがきゅっとなった」
 胸のあたりを押さえながら思ったのは、せめて影二が笑い飛ばしてくれるか、そうでなくてもくだらないと一蹴してくれればいいなということだった。
 憐れまれでもしてしまったら目も当てられない。だが、
「飯くらい」
 聞こえてきた言葉は、想像したどれとも違った。そのまなざしと同じく一切の迷いを感じさせない、堂々とした響きを持つ彼の声がユナは嫌いではない。彼の声につられるようにして視線を上げると、再び影二と目が合った。
 彼は特に動揺することもなく、ユナを真っ直ぐ見下ろしたまま言った。
「一緒に食ってやるから、つまらぬ面はやめろ」
「へ」
「不服か」
 即答しなければ、なかったことにされてしまいそうな雰囲気があった。それは、嫌だ。
「不服じゃないけど……わたし、和食って作ったことないよ」
「味噌汁程度なら作り方を教えてやる」
「ほんと?」
「こんなくだらん嘘を吐いてどうする」
「そうなんだけどさ。妙に優しいから」
 よせばいいのに、いらないことばかり言ってしまう。ビリーからもたびたびたしなめられる悪い癖だ。ユナ自身、自覚もある。けれど影二は、気を悪くしたふうもなく肩をすくめただけだった。
「こんな夜には、気紛れを起こすこともある」
「そっか。でも気紛れで?この間の話はなかったことに?なんて言われたら悲しいなー」
 やや後ろ向きに呟いて、ユナは思いついた。
「じゃあ、指切り!」
「は」
「指切りげんまんってやつ。してよ!」
「妙なことは知っているな……」
 呆れている影二を急かし、小指を絡める。
「ビリー様から聞いたんだよ。ビリー様はギース様から聞いたんだって言ってたけど――指を切り落とす覚悟の約束は絶対に守らなきゃいけない。もし約束を破ったら『拳万』すなわち一万回の拳を叩き込むんだって。それからすかさず針を千本呑ます……とかなんとか。そこにとどめの雷鳴豪破投げを加えてフィニッシュするのがギース様流で……」
「勝手に物騒なアレンジを加えるんじゃない」
 嘆息しつつ、影二はいつものように突き放すことはしなかった。そればかりか、目尻がほんのりと下げて笑っているようにも見えた――瞬きをした一瞬の後に彼はもういつもの仏頂面に戻っている、その程度の変化ではあったが。
「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本のーますっ……指切った。って、ナンデ指切るの?」
「そこは知らんのか」
「うん」
「もとは遊女の風習だ。心に決めた相手へ小指を送って、愛を誓ったのだという。言葉や心は目に見えぬ。体も自由にならぬのなら、せめて指だけでも。自分の自由になるものの中で、精一杯を尽くすことで相手に誠意を伝えたのだ」
 ヤクザ者の慣習とばかり思っていただけに、ユナは少し驚いた。愛などという言葉とは無縁に見える影二が、しかつめらしい顔をしてそれを語ってみせたことにも。
「もう離していい」
「あ」
 絡んでいた指がほどける。
 思わず指先を追ってしまいそうになった自分に気付いて、ユナは掌を握りしめた。当然、あるべき場所に小指は付いている。目に見えるなにかが、そこに残されているわけでもない――というのに、どうしてか。まるで大切なものでももらったように胸の奥があたたかくなったのは。反面で、なんだか切ないと感じるのは。
 酷く困惑していると、こちらの様子に気付いたらしい影二がぴくりと眉を上げた。
「どうした」
「ううん……」
 なんでもない。と言おうとしたところで、
「なんでもないは、なしだ」
 釘を刺されてしまった。返す言葉を詰まらせながら、一方で影二らしいなとユナは思った。彼は存外に面倒見がいい。友人ですらないという顔をして馴れ合いを拒むくせに、奇妙なところで突っかかってくる。
「必要な言葉を呑み込まれると、話し合いのできん男だと言われているような気になる。いや、どちらかと言えば話し合いは苦手だが。それでも、聞く耳を持たぬほど薄情ではない。と、思う。だから、言いたいことがあるなら言え」
 喉元に刃物でも突きつけられているような。でなければ、不意に頬を撫でられでもしたかのような。そんな心地でユナは眉間に力を込めた。
「――」
 肺から空気を絞り出す。声が震える。
「そんなこと、言われたらさあ……」
 言われたら、なんだというのだろう。素気なくされるよりもよっぽど強く感じた理不尽の味に顔をしかめ、胸の内に言葉を探す。影二は黙って、待っている。
 ややあって、
「きりがなくなっちゃうよ」
 ユナは呟いた。声に出してしまえば、たったそれだけのことでしかないのかと拍子抜けもしたが。
「ご飯、一緒してくれるんでしょ」
「ああ」
「お味噌汁の作り方、教えてくれるとも言った」
「ああ、言ったな」
「で、指切りしてちょっと笑って……」
「いや、笑ったくだりはまったく覚えがないが」
 そこだけはきっぱり否定され、不意打ちを食らった形で沈黙する。なんだか様にならないなと影二を見つめても、彼は譲歩してくれそうになかったので、その件についてはひとまずおいておくことにした。気を取り直して、ユナは続けた。
「えーと、嬉しかったんだ。さっき、京たちとご飯食べてここがきゅっとなったって言ったけど、今の方がなんか、こう、胸がいっぱいで……ぐるぐるして……あれ、おかしいな。言いたいこと、たくさんあるって思ったのに。言葉が見つからないや」
「そうか。まあ、嬉しい分には問題なかろう」
 影二は曖昧な相槌を打つと、他人事のように言った――事実、彼にしてみれば他人事に違いないが。話が済めばもう興味もなさそうに、視線をよそへ向けている。そんな彼の簡潔さが奇妙にも心地よくて、ユナは声を上げて笑った。
「そうだよね。影二はすごくシンプルだ!」
「お前に言われると、馬鹿にされているような気がする」
「ナンデ!?」
 言い合いつつ夜道を歩く。なんとなく見上げた夜空は、真円に近い月のせいかやけに明るく感じられた。




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