03

「頭目」
 声に、如月影二は振り返った。青鼠染めの忍装束に身を包んだ女が、建物の陰に佇んでいる。相手の顔に見覚えはあった。同郷の誼で影二とはほとんど歳も変わらない。
「久しいな」
 ほんの少しだけ驚きながら言葉を返すと、女は困ったように笑ってみせた。
「本当に、お久しぶりでございます。便りがないのは良い便りとは申しましても、頭目が滅多に戻られませんので留守居も随分と気にしていらっしゃいます。お身体などお変わりはありませんか?」
 言外に咎める視線から、目を逸らす。半年ほど、便りのひとつも出していなかったことをそのとき初めて思い出したのである。
「ああ、こちらはまったく。いまだ修行中の身ゆえ、わざわざ己の未熟を報告することもなかろうと……いや、おぬしに手間をかけさせたことは悪いと思うが」
「頭目の連絡無精は今に始まったことではございませんが、留守居ももう歳ですからあまり心配などおかけしませんよう。そもそも――」
 これが始まると長い。思わず耳を塞ぎたくなってしまうものの里の様子に無頓着だった自覚はあるため、女の懇願とも説教とも世間話とも付かない話に(影二にしては珍しく)耳を傾け小一時間。どこそこの家で子犬が生まれたという話題にまで及んだところで、ようやく話が止んだ。
「……これからは、せめて便りくらいは出す」
 影二はげっそりと言った。女の方はといえば、あれだけ喋って息のひとつも切らしていない。涼やかに微笑んで、そうなさってくださいませ、などと言うのだから恐ろしいものである。
「それで、おぬしは戻るのか」
「はい」
「ならば、手間代をくれてやる。里の妹に土産でも買ってゆけ」
 いくらか包むと女は形式的に一度固辞して、二度目に受け取った。里にいる妹のことでも考えているのか、はにかみながら礼を言って陰に消える。あとには香りのひとつ、足跡のひとつも残さない。まるで最初から誰もいなかったようにも見えるその場所を影二がしみじみ眺めていると、少し離れた場所からユナが声をかけてきた――もっと早く会話に混ざってくるものとばかり思っていたが、彼女なりに遠慮したらしい。
「もう終わった?」
「ああ。待たせたな」
「別にいいけど……」
 呟きながら、建物の陰を凝視している。
「けど、なんだ?」
「影二がああいう話を聞くの珍しいなって。わたしがしょうもない話題振ったらスルーするばっかだから、誰にでもそうなのかと思ってたよ」
 拗ねてみせるユナに、影二は鼻を鳴らした。
「おのれの役割を果たしている者に対しては、こちらも果たさねばならん義務がある」
 如月流頭目としての側面を見られたことに対するきまりの悪さも、少なからずあった――とはいえ、お前の話を聞いているよりは有益だからな、などと付け加えてしまったのは余計だったかもしれない。日頃へらへらと笑っていることの多いユナもさすがにカチンときたようで、面白くなさそうに片方の眉をつり上げた。
「あのさ……」
 怒気が膨らむ。影二はユナの顔を見つめたまま、その様子を眺めた。言葉が過ぎたと自らを省みないではないものの、怒らせたかと思うとそれはそれで興味もあった。なにしろ、理不尽を前にしてもひたすら泣き言を言うか笑って済ませるかが彼女の常である。
 が、影二の視線に気付くとユナはすっと感情を呑み込んだ。そうなると、もういつものお気楽顔に戻っている。激情など感じたこともなさそうな凪いだ瞳で、瞬きをひとつ。髪と同じ薄い色の睫毛が目の下に少し影を落としたが、それで陰気に見えるということもない。
「そだね。うん、影二の言うとおりだ」
 言って、さっさと歩き出す。
 その後ろ姿に、影二はなんとも言いようのない苦さを覚えたのだ。

 ***

 改めて考えてみると、ユナについては知らないことの方が多い――というより、名前と所属以外のほとんどを知らないと言った方が正しい。互いの身の上話をしたこともなく、彼女が時折面白おかしく語ってみせる無駄話の断片からは、幼い時分に自立を余儀なくされたらしいと分かる程度である。
 だからというわけでもない。ユナを、密かに尾行てみようという気になったのは。
 定期報告があると言って別れた彼女は高級ホテルの前で足を止め、さっと身なりを整えてから慣れた足取りで中に入っていった。
 ビリー・カーンの宿泊先ということだろうが。
 着慣れた青染めの忍装束を見下ろして、影二は顔をしかめた。中の様子を窺うにしても、これではさすがに悪目立ちする。どうにかできないものかとあたりを見回すと、周囲を警戒していたらしいビリーの部下が視界に入った。例の――ハワード・コネクションの構成員にありがちな――スーツにサングラス。いかにもその筋らしいと言えばその筋らしいし、無個性と言えば無個性にも見える。一人を物陰に引きずり込んで昏倒させ、衣服を奪った。サイズはぴったりだった。
 ホテルのラウンジカフェには、それなりに人の姿がある。打ち合わせのために集まった、あるいはひとりで書類を持ち込んでいるビジネスマンが多い。その中で特別異彩を放つということもなく、ユナは奥のテーブルについてメニューをぼんやりと眺めていた。正面は空席だが、後からビリーが来るのだろう。死角になりそうな位置で腰を下ろし、影二はちらりと彼女の方を見た。
 コーヒーを注文したユナは、まだ身なりが気になるのか癖のある髪をしつこく後ろへ撫でつけている。日頃は上からふたつ開けているシャツのボタンも首のところまできっちりと留め、何度もネクタイを締め直すなどして落ち着きがない。
 やがて固い床を叩く革靴の音が近付いてきて、ユナのところで止まった。ビリーだ。トレードマークのバンダナはいつもどおりだが、見慣れたオーバーオールの代わりに着込んだスーツが窮屈そうだった。日頃の所作からは意外に思えるほど静かに腰を下ろすと、ビリーは口を開いた。
「首尾はどうだ、ユナ」
「KOF95'大会からこっち已然として草薙京の調子が戻らずに二の足を踏んでいる形です。草薙柴舟がなにかを知っている様子ですが、食えない男で尻尾をなかなか掴ませず……曰く、草薙家と八神家の長きにわたる血の宿縁を導いたのがオロチ一族である、とだけ。八神庵は相変わらず凶暴で、なかなか近寄らせてくれませんし」
 と、ユナが答える。
「ま、想定内だな。他に変わったことは?」
「麻宮アテナと椎拳崇が草薙京を追って日本に来たこと以外は、特に」
「そいつらは放っておいていい」
 投げ捨てるような仕草とともに言って、ビリーは思い出したように視線を上げた。
「ところで、如月のやつはどうしてる?」
 言葉とは裏腹に、然程興味はなさそうだった。ただ、部下の忠心を少なからず気にしているようには見えた。目をすっと細くして、もしくは牽制だったのかもしれないが。そんな上司に、ユナはたどたどしく答えた。
「いつもどおり冷たいです」
「そうか。ならいい」
「よくないですって。もっと部下の仕事環境や人間関係に興味持ってくださいよー」
「いや、いいって。面倒くせえし」
「わたしってそんなに働いてないように見えますかねー。まあ、見えますよね。地味な調査以外のことをしているわけでもなくて、こうやってビリー様に定期報告すればお給料もらえるんですから。ここってわりかし安全な国ですし」
「……おい」
 いつもの調子で喋りだしたユナを、ビリーが半眼で睨むが。
「別に文句があるわけじゃないんですよ。ほんと。むしろ我ながらしょうもないこと言ったよねって、そういう気持ちなわけで。現実も忘れて本物のニンジャだワーイなんて浮かれた結果が給料泥棒のゴミムシみたいな言われようっていう」
 当の本人は、いつも通り聞いちゃいない。
「ユナ」
「いや、分かっちゃいるんです。もうちょっと手加減してほしいなんてのはこっちの都合で、実際のところオトモダチですらない影二にそれを望むのは勝手すぎ――」
「ユナ・ナンシィ・オーエン」
 耐えかねたのだろう。ビリーが苛立った様子で名を呼んだ。瞬間、ユナは綺麗に背筋を伸ばした。警告を無視すれば叱責だけで済まなくなることを知っている、そんな様子だった。ぴたりとお喋りをやめ、ビリーの顔を見つめている。
 ビリーは指の先で――リズムでも刻むように――テーブルを叩き、嘆息した。
「お前な、上司に愚痴を言うやつがあるかよ」
「そこはほら、部下のメンタルケア的な……」
「必要ならいい医者紹介してやる」
「産業医に丸投げは愛がないです」
「ほんっと、口が減らねえ」
 ぶつぶつと呟きながら、今度はいくらか真剣な表情を作る。
「で、お前はなにが不満だ? ユナ・ナンシィ・オーエン」
「いや、そういう言い方をされてしまうとなんかガッコのセンセイと話している気分になってやりにくいので、もっと軽い雰囲気でお茶を濁してほしいというか……」
「注文の多いやつだな。そもそも学校なんて通ったことねえだろ、お前」
「そうでした」
 そのまま十秒ほど見つめられ、観念したらしい。ユナはぼそぼそ言った。
「郷里の人がですね、訪ねてきたんです。影二を。で、世間話するじゃないですか。やれ里の同志がドーダコーダと。それを丁寧に聞くわけです。聞き終わったらお互い気遣い合うような挨拶を交わして、ついでに土産のひとつも買えとお小遣いも渡して……って、それはどうでもいいんですけど。珍しいナって」
「ああ――お前、また思ったままに言ったのか。で、嫌みのひとつも言われたと」
 頷き、ビリーは小さく舌打ちした。
「訊いといてなんだが、くだらねえ」
「だから最初にしょうもないって言ったじゃないですかー……」
「如月が冷たかろうが優しかろうが、やるこたァ一つだ。忘れるな」
 ユナを一瞥し、静かに釘を指す。
「分かっています」
「まあ、そのあたりは疑っちゃいないが」
 即答を聞くと、ビリーはユナに憐れむようなまなざしを向けた。
「お前って、厚かましいくせして変なところで物分かりがいいよな」
「褒めてます?」
「いや、どこまでも面倒くせえって話」
「うう、上げて落とされたような気分……」
 ぼやきには答えず、代わりに硬貨を一枚指で弾いて投げつける。
「報告のゴホービだ。ないものねだりしたって仕方ねえし、ごっこ遊びで我慢してな」
「いい上司ですよね、ビリー様」
「部下のメンタルケアも仕事のうちなんだろ。気が済んだらさっさと行け」
 苦笑するユナを仕草だけで追い払うと、彼はなにか考え込むように一度だけ目を瞑った。彼女の姿が完全にラウンジから消えた頃――
「悪趣味はやめろよ、如月」
「それを貴様が言うか、ビリー・カーン」
 聞こえてきた悪態に、影二は苦く応じた。
「気付いていたくせに会話の中ではおくびにも出さなかった食わせ者が。ついでに駄賃のくだりまで当てつけて、悪趣味極まりない」
 小声で返す。が、それに対してビリーは素知らぬ顔で片手を挙げただけだった。物陰で殺気立っている彼の部下たちを制止したらしい。わずかに張り詰めていた空気が平常に戻っていくのを肌で感じながら、続く反応を待つ。と、
「当てつけたくもなる。聞いたか、現実も忘れて本物のニンジャだワーイだと」
「苦労が絶えんな」
「誰のせいだ。ったく、こんなことなら不知火舞にでも引き合わせてやった方が百倍マシだったぜ。部下のメンタルケアしたって特別手当ては付かねえんだぞ」
「貴様の嫌がる顔が見られるなら、多少は構ってやらぬこともないが」
「口実にしやがるところがうぜえ」
 声の調子からすると辟易しているのかもしれない。上司というよりは、まるで保護者じみている。影二の訝しげな視線に気付くと、ビリーは瞳に浮かんだ感情をまばたきとともにかき消した。
「ともかく、面倒事だけはやめろ。こっちはオロチの件で手一杯だ」
「それはこちらも同じこと」
「だったらこんなところで油売ってんな」
 椅子から立ち上がり、くるりと踵を返していく――ビリーは半歩足を踏み出したところで動きを止め、振り返るでもなく静寂に零した。
「そういや、用事はなんだったんだ。如月」
 今更過ぎる問いかけに、影二は答えなかった。

 ***

 酷く癪に障るが、ビリー・カーンの言葉は正しい。
 つまり、自分がどうでもいいことのために油を売っていた事実は認めざるをえない。影二は忌々しい心地で、来た道を引き返していた。結局のところビリーが持っているかもしれない有益な情報どころか、ユナ・ナンシィ・オーエンの経歴ひとつさえ分からなかったというのだから間が抜けている。
 ――口実、か。
 これもビリーの言うとおりだった。ユナを憐れむために、回りくどく口実探しをしている。本来、言い過ぎたの一言で済む話だ。他人とつるむのは慣れないから、と言ったところで空々しい言い訳にしかならない。気に入らない。なぜオレがこんな思いをしなければならんのだと、怒りさえわいてくる。そも、この身動きが取りづらいスーツというやつもよくないのだと八つ当たり気味に毒づいて、ビリーの部下から服を借りっぱなしだったと気付いた。
 通りがかった公園のくずかごに、サングラスを投げ――

「影二?」

 聞こえてきた声の間の悪さに、乾いた笑いさえ出ない。とはいえさすがに無視もできず、影二は振り返った。背後ではたこ焼きの入った舟皿を片手に、ユナがきょとんとしている。
「……ユナ」
「どうしたの、それ。就活?」
 その一言で、やはり無視すれば良かったかと後悔しないではなかったが。
「まあ、いいや。ナイスタイミング」
「ないす?」
「ビリー様からもらったお小遣いで、たこ焼き買ったんだ。ほら、そこ」
 公園の隅に出ている屋台を指差して、ユナは気楽そうに笑った。
「影二にも半分、分けたげる」
 香ばしいソースの匂いを漂わせた舟皿を、ずいと差し出してくる。つい数時間前の会話など、すっかり忘れ去ったような顔だった。
「蒸し返さないのか」
 我ながらまったく気の利かない言い方だと思いつつ。単刀直入に訊くと、ユナはあっさり頷いた。
「蒸し返さないよ。ないものねだり、したって仕方ないじゃん」
「だから、ごっこ遊びで満足すると?」
 思わず言ってしまったが、やぶ蛇だった。
「ソレ、なんで知ってるの」
 案の定眉をひそめているユナに、影二はかぶりを振った――失言ついでに言ってしまえと、半ば破れかぶれに。
「オレが世間話を聞くのは珍しい、と言ったな。お前も同じだ。オレに対しては事あるごとにへらへら笑って誤魔化すばかりだが、ビリーのやつには本音を零す」
「影二もそういうの、気にするんだ?」
「信用問題だ。まあ、どの口でと言われれば返す言葉もないが」
「確かに……あ、信用問題って話の方ね」
 ユナは頷きながらも、その話題には飽きたとでもいうふうに舟皿へ視線を落とた。ゆらゆらと踊る鰹節とたこ焼きを興味深げに眺め、爪楊枝で突き刺す。
「はい、おひとつどうぞ」
「む」
 差し出されたたこ焼きを、影二は素直に口に入れた。かりかりに焼けた表面を食い破れば、中からとろりとした生地が零れ出る。紅ショウガのぴりりとした刺激が、ソースの甘さをちょうどいい塩梅にしていた。大きめのタコを噛み砕いて呑み込むと、その頃合いを見計らったようにユナが口を開いた。
「いたんだね、さっき」
「ああ」
「別に、へらへら笑って誤魔化してるわけじゃないんだよ。わたしって多分、影二が思ってる以上に面倒なやつでさ。そういうところを他人に見せるのは鬱陶しいでしょ。だったら笑ってた方が少しはマシっていうか。それで上司に愚痴るのはどうなのって感じだけど」
 言って、ユナはまたたこ焼きに爪楊枝を刺した。バランスが悪かったのか、それともタコに恨みでもあるのか、角度を変えて刺し直し、ようやく納得して口元へ運ぶ。静かな咀嚼音を聞きながら、影二は酷くばつの悪い思いで呟いた。
「給料泥棒のゴミムシとまでは言っておらん」
「影二にとっては似たようなものかなって」
「そう思われるのは心外だ」
「そっか。ところでもうひとつ食べる?」
「ああ、もらおう」
「影二って、食に関しては素直だよね」
 それは言外に、食以外のことでは素直でないと言われているのか。ふたつめのたこ焼きを口に入れ、呑み込むまでのわずかな静寂に思考を巡らせる。答えは、考えるまでもない。
「……悪かった。知った口を利いた」
「蒸し返さないって言ったのに」
「こちらも信用問題だと言ったろう。ついでに言っておくと、オレはどうにもお前とは逆らしい。お前に対しては何者でもない気安さがある分、遠慮がなくなる」
 侘びの代わりに本音をひとつ。念のため、侮辱ではないぞと付け加えておく。ユナは何度か瞬きをすると、唇にほんのり笑みを含めた。
「それなら、少しは嬉しいかな」
 吐息とともにそっとこぼして。
「でもさ、影二はなんでビリー様のとこにいたの? 旧交を温めるとかいうやつ?」
 はたと気付いたように、首を傾げる。自分を追ってきたとは露ほども思っていないらしい。それを教えてやる義理もなく、また言ってやるのも癪で、影二はただ――「ねだられなければ、ないかどうか分からんこともある」と呟いた。
 




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