02

 立ちこめる甘ったるい香りに、如月影二は顔をしかめた。大人ひとりがようやく立てる程度の狭いキッチンで、女がボウルを抱えてガシャガシャと乱暴な音を立てている。耳に特大のヘッドフォンを当てているせいで侵入者の存在にも気付かないというのは、迂闊者の彼女らしい話ではあった。時折ぺろりと唇を舐めながら上機嫌に口ずさんでいるのは、UKロックだろうか。珍しい曲調だがKOFでビリー・カーンと組んだ折に何度か耳にした、そんな程度の覚えはある。
 背後からヘッドフォンを取り上げると、彼女――ユナ・N・オーエンは大袈裟なまでに飛び上がった。その拍子に両手からボウルが零れたが、床に落ちる寸前で受け止める。中身はチョコレートを溶かしたものだ。シンクに転がっている生クリームの空きパックを見るに、そういったものも入っているのかもしれない。どうでもいいことではあるが。
「影二! なんでここに?」
 泡立て器を握りしめたまま声を上擦らせるユナを、影二は冷たく睨んだ。
「草薙京に動きがあったから伝えに来たのだが……まさか呑気に菓子作りをしているとはな。日本での生活にも随分と馴染んだようで何よりだ」
 皮肉で刺す。ちらりと――ビリーに部下の怠慢を告げ口してやろうかとも思ったが、それで面倒事を押しつけられても敵わないので保留にしておく。あれでいて存外に食えない男だ。あるいは、彼に指示をするギース・ハワードなどの影響もあるのだろう。
「で――京に動き? ナニ? また庵と喧嘩?」
 まったく堪えたふうもなく、血の宿縁を喧嘩の一言で片付けてしまうのだから草薙京と八神庵も報われない。
「木曜に出かけるそうだ。椎拳崇と麻宮アテナも一枚噛んでいると見た」
 嘆息しつつ告げると、ユナは少し考えるように視線を上げた。
「木曜……」
「心当たりでもあるのか?」
「まあ、うん、心当たりといえば。木曜って十四日でしょ」
「ああ」
「一枚噛んでるのって、ケンスウとアテナだけじゃないよね。京のカノジョも?」
 珍しく察しがいい。顔に出したつもりはなかったが困惑は伝わったのか、ユナは分かりやすく肩を落とした――わたしのこと、なんだと思ってるのさ。と、唇を尖らせて。
「だってバレンタインだよ、十四日は」
 言われてみればそんな日もあったなと、影二も遅れて思い出した。聖バレンタインデー。ナントカという聖人の命日だったか。横文字のイベントの中でも特に馴染みが薄かったため、すっかり忘れていたのだった。如月の里ではそういったイベントを祝う風習はなかったし、里を出たら出たで義理を交わすような相手もいない。
「では、お前のこれも贈り物か」
 ボウルの中身を指差して訊ねると、ユナは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「え、ああ、まあ」
「はっきりせんな」
「そうなんだけど、なんだかなあ……こういうときって、もしかして自分宛かもーとか、知らないふりした方がいいのかなーとか、本命がいるなんて聞いてないぞーとか、なにかしら葛藤するもんでしょ。そんなアッサリ」
「興味もない。それと、オレには寄こすなよ。甘味は好かぬ」
 なんとなく先んじて釘を刺しておく。
 案の定、義理でも果たすつもりだったらしい。渋面を通り越して無表情になっていくユナを眺めながら、影二はボウルを突き返した。まだ若干あたたかいチョコレートが、たぷんと揺れる。さすがに抗議のひとつでも返ってくるかと思ったが、ユナはボウルを狭いワークトップの隅に押しやって肩をすくめただけだった。
「甘い物嫌いだとは思わなかったよ。京の家で水ようかん食べてたじゃん」
「ソレとは違うからな。市販のチョコレートを溶かして混ぜて固めただけの代物で、味の予想も付く。無駄に溶かした時間の方に味が付いているわけでもなし」
「無駄な時間じゃなくて、愛情っていうらしいよ。そういうの」
 曖昧な言い方をするあたり、ユナも分かってはいないのだろう。やれバレンタインだチョコレートだと言っても、裏家業に染まって普通の娘にはなれない彼女は影二と同じ穴の狢だ――つまりこの会話そのものが馬鹿げている。彼女と愛だの恋だのを語るのは、たとえば名前すら聞いたことのない怪物の正体を、ああでもないこうでもないと議論するようなものだった。
「そも愛情とは?」
「無償の善意、とか?」
「はっ、無償の善意か。まあ、確かに善意ではあろうな。お前との関係というのは。利害の一致……というより、今となっては巧く口車に乗せられたような気さえする」
 素っ気なく言って、影二は鼻を鳴らした。
「いや、あのさー……ビリー様ですらもっと優しいっていうか……」
 手間をひとつ減らしてやったというのになにが不満なのか、彼女はふて腐れている。
「日本人は率直な言い方を好まないって話、嘘だよね。影二はずばっと言うよね。ワビサビの精神はサムライとともに死んだのかなー……」
「侘び寂びの精神は侍ではなく茶人のものであるし、オレはそのどちらでもなく忍びだ」
 きっぱりと言って、その件は終わったつもりだったのだが。

 ***

「で、結局やるんだ。尾行」
 二月十四日。バレンタインデーと言ったところで、平日の午後には違いがない。二月に入ってからやや浮かれ気味だった街のディスプレイは当日を迎えてしまえばむしろ平常に戻りつつあったし、カップルがとりわけ多いということもない――というのに、隣ではユナがなぜか半眼でぼやいている。
「そりゃ役者が揃ってる感はあるけど、要は学生カップルのグループデートじゃん。何気なく手と手が触れ合ってドキッみたいなシーンを見せられちゃったら、どんな顔すればいいのさ。たとえるなら……頭の上がらない上司となんとなく映画観てたら結構濃い濡れ場が流れて、お互いわざとらしくポップコーンを貪る羽目になるみたいな、そういう経験。影二にはある? わたしにはある。すっごい気まずい」
 それは確かに気まずいだろうなと思いつつ、影二は呟いた。
「微妙に興味深い話題はやめろ。ビリーのやつがどんな顔をしていたのか考えると気になって集中できん」
「無表情だよ。滅多ないから、貴重ではあったかな」
 そんな緊張感の削がれる話をしながらまた視線を街へ投じると、ちょうど最後にやってきた草薙京が合流したところだった。髪の短い快活そうな少女――ユキといったか――が、一言二言文句らしきものを言って、京がそれをあしらう形で歩き出す。
「ちょっと、京! もう、遅刻してきたくせに可愛げないぞ!」
「んなこと言ったって、仕方ねーだろ。出掛けに紅丸から電話が掛かってきたんだから」
「アテナと拳崇クンも待たせて……」
「あーハイハイ。悪かった。ついでに、もう一人待たせちまったみたいだしな」
「もう一人? 誰のことや?」
 と、独特なイントネーションで首を傾げたのは拳崇だ。京は足を止めると、
「――影二。そこにいるんだろ、出てこいよ」
 振り向きもせずに告げてきた。悟られている以上は隠れる意味もなく、影二はあっさり声に応じた。思い切り顔をしかめている京に、ひとつだけ腑に落ちず訊ねる。
「よく、拙者だと分かったな。貴様を探るやつなど他にいくらでもいそうなものだが」
「気配消して尾行てくるのなんて、お前くらいだろーが。八神はそんなまどろっこしいことしねえし、ビリーのやつはもっと物々しいし。前なんか黒塗りの車で追い回されて……」
 言いかけたが、京はユナに気付くと眉間のあたりを指で押さえた。
「と、思ったらビリーの手下もいるのかよ。デートか。暇か、お前ら」
「まあ、暇そうに見えるよねえ」
 他人事のように、ユナ。京は一瞬だけこめかみを引きつらせたが、すぐにどうでもよくなったのだろう。蠅でも追いやるような手つきで空気を払うと、溜息交じりに言った。
「なんでもいいけど、黒服うろつかせるのはやめろってビリーに言っておけよ。しょうもねえ噂ばっか増えて、こっちはうんざりしてんだ」
「って言われても雇われの身だからなァ、わたし」
「上司に意見も許されないような職場なら、やめちまえ」
「簡単に言うけど、同業他社で同じ条件のところってそうそうないからね。うち、業務内容はともかく手取りと福利厚生云々で言ったら超ホワイトだし……」
「世の中金か、やっぱ」
「真理だよ。食い詰めると生きものを見た瞬間、これは食べられそうか食べられそうにないかって考えるようになるんだ。野良猫と生死を賭けた決闘とかしたことある?」
「いや、ねえけど。なんだそれ。微妙に気になるからやめろよ」
 どこか既視感のある会話を聞きながら、影二はげっそりと息を吐いた。
「どうにも締まらぬな」
「それをお前が言うかよ。散々人んちで飯食ってるくせに……」
 京はまだ呟いているが、聞かなかったふりをする。その(ひたすらに)間の抜けたやり取りをぽかんと見ていたユキが、ふと我に返って京の袖を引いた。
「なんでもいいけどさ、京。早く行こうよ。時間、勿体ない」
「あー……でも、なあ。どうすんだ、この空気」
 頭を掻く京とこちらとを眺めて、麻宮アテナが思いついたように手を叩いた。
「それなら、もういっそ如月さんたちも一緒にどうかな」
 拳崇が隣で露骨に肩を落としているのにも気付かずに、ニコニコ告げてくる。
「どこへ」
 訝る影二に、京が答えた。
「遊園地。遠くから見られてんのも気が散るから、嫌なら帰れ。それか無理にでも帰す」
 半ば投げやりに、けれど炎をちらつかせてくるあたりまったくの脅しというわけでもないのだろう。なんとなく隣を見ると、ユナもこちらを見上げていた。
「学生に交じって遊園地かー。わたしの気まずい経験エピソードが、またひとつ増えたなー」
 小声で呟くユナに、
「…………」
 もしや空気が読めなかったのは自分なのでは、となんとなく察するものがあって。
 今度ばかりは反論もできず、影二は押し黙った。

 護国ヶ丘ゆうえんち。
 入園ゲートには、目立つ文字でそう書かれている。つまるところ、文字通り遊園地でしかない。
 ゲートをくぐるなり、ユキとアテナがきゃっきゃとはしゃいで駆けだした。そのあとをゆるりとした足取りで追う京と拳崇の顔も、どことなく穏やかではある。さらに遅れてのろのろと続く自分たちの対照的なことといったら――まあ、自業自得なのだろう。
「遊園地か。実は、わたし初めてなんだ」
 入場券をひらひらさせながら、ユナが言った。
「影二は来たことある?」
「あると思うのか、逆に」
「いや、威張られても。どっちかってったら少数派なんだろうし。安心はしたけど」
 いつもの調子で喋りながら、どこか気もそぞろだった。こちらの様子に気付いた高校生たちが(もう随分と先に行ってしまっていたが)振り返って、早く来いと手を振っている。それで影二はまたユナと二人、顔を見合わせた。
「……行く?」
「放っておけと言って通じるような雰囲気でもあるまい」
「影二が雰囲気を気にするなんて珍しいね」
「それこそ、放っておけ」
 少なからず感じた後悔を悟られないように、影二はふいとそっぽを向いた。そうしてユナを引きずって京たちの許へ向かった結果が、ローラーコースター三回、フリーウォール二回、ついでに回転ブランコとバイキング一回ずつというのは、想定外すぎてさすがに数時間前の自分を恨まずにはいられなかったが。見事にスクリーム・マシンばかりに付き合わされて、まっさきにユナが音を上げた。
「うええええ……目が回る……」
 ベンチに座り込んで、ぐったりと空を見上げている。そんな彼女に缶ジュースを投げてやってから、影二は隣に腰を下ろした。爪を引っかけてプルトップを開けると、炭酸の抜ける小気味よい音が響く。(忍装束が珍しいのか)ちらほらと視線を感じないではなかったが、今に始まったことでもないので特に気にもならなかった。
 遠くではまだ物足りなそうなユキとアテナを、少なからず辟易した様子の京と拳崇がそれぞれなだめている。売店でなにか食べようと、そんなふうに気をそらしているようだ。その光景をぼんやり眺めるうちに、彼らにも高校生らしいところがあるのかと奇妙な心地になった。なんとなく馬鹿らしくなってきて視線を足下に向ける。
 ややあって、ユナが口を開いた。
「ああいうの……」
 冷えた缶を額にあてながら、どことなく陰鬱に。
「なんか、変な感じするんだ。見てると。首の後ろがムズムズする」
 指差した先には、アイスクリームを選ぶユキの姿がある。いかにも甘そうなストロベリーとバニラの二段重ねにしようか迷ったところで、寒いかと思い直したらしい。財布を取り出そうとしたユキの後ろから京が手を伸ばし、小銭を支払った。彼女が受け取ったアイスクリームをそのまま肩越しにひとくち囓って、行儀が悪いと怒られている。
 拳崇とアテナも、似たようなものだ。
「アテナは食べたいものないんか」
「いいよ、自分で買うから」
「いや、買うたるよ」
 そんな焦れったくなるような――取るに足らないやり取りでなぜか眉間に皺が寄るのを自覚して、影二は不機嫌に呟いた。
「羨んでいる、というわけでもないのだろう」
「どうだろ。正直、よく分からないよね。なんか馴染みのない映画とか観てるみたい。このへんに一枚、透明な幕があってさ。違う世界の出来事なんじゃないかって」
 手で四角を作りながら、ユナが吐息を零す。
「居心地悪いって言い方が、一番近いのかも」
 それならば分かる。分かる気がする。
 熱のないユナの目から視線を外して、影二も苦く頷いた。尾行に勘付かれた時点で切り上げていれば、あるいは隣にいるのがユナでなければ、自分一人であったなら、この据わりの悪さに気付かずにいられたのかもしれないが。
「だって、ああいうの知らないんだ。京は混ざれって言ったけど、スクリーム・マシンに乗ってた間の記憶もそんなにないな。いや、頭がぐわんぐわんしてたからとかじゃなくて」
 ユナの冷えた指先が、なんの前触れもなく手の甲に触れてくる。
「ねえ、影二」
 反射的に殴り倒したくなるような、甘い囁きが耳を打った。けれどそうしなかったのは、続く声が酷く自虐的だったからだった。
「アイスクリーム、食べよっか。オーソドックスにバニラがいいな。影二にもひとくちあげる。そしたら今度は観覧車でも乗って――なんて、ああ、なんかすっごく白々しいんだ。わたしにはどれひとつとして想像できないし、やってみたところであんなふうにはならないんだと思う。想像に穴が空いてるみたい。それなのに周りは当たり前のように楽しんでて、ごくごく自然で、時間が足りないって顔さえしてて、わけが分からなくて吐きそう」
「吐くなよ」
 とりあえずそれだけ言って、覆面の下でそっと息を吐く。ユナの顔色も本気で悪いが、影二自身も少なからず気が塞いでいた。
 影二に血の繋がった家族はいない。親の顔も覚えていない時分に捨てられたところを、如月流の現総帥に拾われた。その境遇にはなんの不満もない。思春期に思いを馳せてみても、悩んだ記憶はない。未練もない。恋しいと思うには、それはあまりに漠然としていた。愛。情。慈しみ。当たり前に交わされる日常の営みは、しかし想像しようとすれば――彼女の言うとおり空白に変わる。優しい世界は得体が知れなく、ただただ身の置き場がない。
「影二」
 ユナの呼ぶ声で、影二は我に返った。
「帰ろ。今日はさ、きっとなんにもないよ。成果」
 彼女の言うとおりなのだろう。
 同意し、どちらともなくその場を離れる。馴染めない変わり者が二人、いなくなったところで気にする者もない。ただ入園ゲートで待機していたスタッフだけが早すぎる退園を訝って再入場の有無を訊ねてきたが、手で制する仕草だけで必要ない旨を伝えて外へ出た。
「わたし、ちょっと八神庵の方を見張ってる同僚と合流してくる。あと、ビリー様にも定期報告しなきゃだし――また、なにかあったら連絡するね。ヨロシク」
 逃げるように走っていったユナの背中を見送って、
「さて……オレも草薙邸の様子でも見に行くか」
 影二は憂鬱に空を仰いだ。

 ***

「あら、忍者さん」
 声をかけられて、影二は木の上でひそかに嘆息した。眼下には女の姿がある。和服の似合う淑やかな美人で、一見しただけでは高校生の息子がいるようには思えない――京の母親で、名を静という。買い物帰りか片手に手提げ袋を提げた彼女は、屋敷に続く石段を登ってくると自然な仕草で木の上を仰いだのだった。草薙邸をぐるりと囲む塀の近くに植えられた巨木だ。屋敷の内と外とが見渡せるため、出入りする人の動きを見張るには都合がいいのだが――
「降りていらっしゃったら?」
 と言われてしまっては、知らないふりもできない。
「これは母君、相も変わらず鋭い」
 地面に降り立つと、影二は苦笑交じりに挨拶した。静はやんわりと笑みを浮かべている――いつも通りだ。実を言えば京や草薙柴舟よりも、彼女こそ油断がならないのではと思う影二だった。
「そういう忍者さんも相変わらずね。今日は相棒さんの姿が見えないようだけれど?」
「別にいつも連れ立っているというわけでも」
「あら、でも今日はそういう日よ」
「そういう日とは」
「聖バレンタインデー。京も、ユキさんと出かけたんですよ」
 ホホホと笑う静に、ついさっきまで一緒だったとも言えず笑って誤魔化す。よく見れば手提げの中には綺麗に包装された包みがいくつか入っていた。いかにもな大和撫子を地でいくような静でも若い娘のように横文字のイベントを祝うのかと少し意外に思っていると、視線に気付いた彼女が悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「忍者さんも、おひとついかが?」
「あ――?」
「会いに行く口実にくらいはなるでしょう」
 なんのために。
 と、言おうとした影二の胸のあたりに静は人差し指をひたりと突きつけた。
「ここに、訊いてご覧になったら。ああ、あの人と京の分はあるから遠慮なさらないで」
 にこりと微笑まれてしまえば、静の真意も分かった――四の五の言わずに受け取ってさっさと問題を解決してこい、と。つまりはそういうことなのだ。少なからず辛気くさい空気をまとっていた自覚はあるだけに、影二は反論もできずに項垂れた。
「……敵わぬな、母君には」
「日頃から世話の焼ける人たちの相手をしていますもの。多少は、ね?」
 たおやかに笑う婦人に別れを告げ、背を向ける。煙玉を使おうとしたところで、
「煙玉はやめてくださる? お掃除が大変なのよ」
 呆気なく釘を指されて、恰好を付けさせてすらもらえない。影二は渋々そのまま塀の上へ飛び乗った。
 夕暮れと夜の闇が二層になった空の下、屋根伝いにアパートを目指す。なんのために、と自分の胸に訊いてみたところで答えが返ってくるでもない。

 草薙邸から目と鼻の先。新しい建物ばかりが並ぶ新興住宅地の一画に、小さなアパートが建っている。周りに比べて比較的築年数が古いせいか、住居者は少ないようだ。二階の角部屋にだけひっそりと明かりが灯っているのを目にとめて、影二はベランダに降り立った。窓の鍵は――ユナが部屋にいるときは、いつだって――開いている。
「ユナ・ナンシィ・オーエン」
 中に声をかけると、ソファの上で背中を丸めていた人影がのそりと顔を上げた。
「できれば、それはやめてほしいな。ビリー様に怒られてるような気分になるんだ」
「怒られるようなことをしたのか」
「どうだろ。イイトコなしだからなあ、最近」
 ユナは何度か瞬きをした。一刷けされていた憂鬱が消えて、いつもの腑抜け面になる。
「さっきもさあ、ほら――庵の様子を見てくるって言ったでしょ。もう大変だったんだ。いやヘマやったのは同僚だったんだけど、あっさり見つかって追い回されるわ乱闘騒ぎになるわ……どうしたらビリー様に怒られないで済むかって考えた結果、バレンタインデーでお茶を濁そうって結論に……逆に怪しいって疑われたけど。ああ、そういうわけでさ」
 影二に向けていた視線を、ユナはそのままテーブルに落とした。正確には、テーブルの上に置かれた箱だ。和紙で丁寧に包まれている。
「羊羹なら、影二も食べるかなって」
「わざわざ用意することもなかった」
 それこそ、わざわざ言うことでもなかったか。
 彼女の前ではどうにも無遠慮になりがちな自分を自覚して、影二は嘆息した。
「いや、悪かった。もらっておこう」
「そうして」
 特に気にしたふうもなく言って、ユナはふいっと視線を彷徨わせた。日頃は無用のお喋りで他人を辟易させる彼女が、言葉をなくしたように黙り込んでいる。
 そうなるとかえって落ち着かない。難儀な女だ。それとも、もしかしたら難儀なのは自分なのかもしれんなと思いながら、影二は細く息を吐いた。もう一度胸に手を当て、言葉を探す――とりあえずひとつだけ見つかった。
「まだ、吐きそうか」
「覚えてたんだ」
「さすがにぎょっとしたからな」
 気まずそうな顔で呟くユナに、こちらも苦笑してみせる。
「というのは、まあ建前だ」
「本音は?」
「慰めに来てやった」
「それも建前?」
「ならば帰るが」
 一歩足を後ろに引くと、ユナは勢いよく体を起こした。
「ちょっと待って、帰らないで!」
 慌てて言って、腕を掴んでくる。指先に込められた力は思いのほか強い。なんとなく見つめ合う形になってしまったことに動揺するでもなく、影二は唇を引きつらせた。
「今のは切実すぎて、引いたぞ」
「だって、そういうの嬉しいじゃん! 可愛げないこと言わないから慰めてよ」
 ばっと両腕を広げられても――どうしろというのか。その両腕については無視を決め込んで、懐に手をやる。指先に触れたのは四角い箱だった。影二はそれを掴むと、ユナの顔に押しつけた。ちょうど角が当たる角度になったのは偶然だ、多分。
「あだだだだっ! ナニゴト!」
「くれてやる」
 顔をえぐられて悲鳴を上げているユナに、前置きもなにもなく告げる。彼女はそこで動きを止め、わたわたさせていた両手をそろりと顔のあたりにやった。掌で箱の大きさを確かめるようにして、目を丸くしている。
「は」
 間抜け面だ。まあ、いつもの腑抜け面と然程変わらない。それでも憂鬱な顔よりはよっぽど見られる――と、その一言は胸にしまっておく。
 ただ言葉が足りなかったことは認めて、影二は続けた。
「京の母君から頂いた」
「仲良いよね、影二。京のママと」
「話を遮らず聞け。オレは洋菓子の類は食わんが、突き返すのも礼を欠く。飽食の時代とはいえ受け取った以上は捨てるわけにもいかぬ。だから、お前にくれてやる……そういうわけだ」
 なんとなく言い訳じみてしまったことを気にしながら、ユナの反応を待つ。彼女はガラス玉のような薄い青の瞳で影二を見つめると、次の瞬間にふっと目を細めた。
「ありがと、影二」
「礼なら母君に言うのが筋だ」
「そういうときはさ、素直にドーイタシマシテって言えばいいんだよ」
 面白味もなく水を差す影二に唇を尖らせつつも、ユナはどこか楽しげに見えた。ただの紙箱を両手でさも大事そうに持って、ためつすがめつ眺めている。それからしばらくして、思い出したようにキッチンへ走っていくとティーポットとカップを二つ。盆に載せ持ってきた。
「せっかくだからティータイムにしよう!」
「アフターヌーンティーには随分と遅いな」
「なんだっていいじゃん。喫茶習慣なんてのはさ、結局のところ気の合う友達とお喋りしながら美味しいもの食べるための名目にすぎないんだから」
 湯で温めたカップに茶を注ぐユナを見ていたら、誰が気の合う友達だと文句を言う気も失せた。ティーカップに緑茶。茶請けはチョコレートと羊羹。優雅さもなければ侘び寂びもない。なにからなにまで奇妙だが、身の丈には合っている。少なくとも遊園地で幸せに笑い合うカップルを、まるで宇宙人にでもなった心地で眺め続けるよりはずっと。
「茶会の挨拶は、乾杯か」
 影二の揶揄を聞いたユナは、猫のように喉を鳴らして笑った。
「そうだね。白けた夜に乾杯!」
 杯を合わせる仕草だけで乾杯してカップに口を付けると、爽やかな香りが広がる。渋みが少ないのは彼女の好みか――まさかビリー・カーンの好みということもないだろう。
 ユナは誕生日プレゼントでももらった幼い子供のように、菓子の包みと格闘している。爪の先で包装紙を引っ掻いて破りながら、どうにかリボンだけは無事に外して丁寧にまとめ、テーブルの隅に寄せた。箱の中にはひとくちであっさり終わりそうなチョコレートの塊が、いくつか並んでいる。
「食べるの勿体ないな。駄目にしちゃう方が勿体ないから、食べるけど」
 ユナはそのひとつを指でつまみ上げ、なだらかな曲線に甘く噛み付いた。唇の隙間からわずかに覗く白い歯と濡れた舌が、丸く形作られたチョコレート菓子を歪に溶かしていく。ご褒美の飴玉を大切に舐める幼子さながらに勿体ぶって、味わって、ひとつをようやく呑み込んだ。白い喉が上下する。影二はその動きを視線でなぞり、少しまなざしを伏せた。昼間に遊園地で感じたやるせなさが不意に戻ってきたようだった――というのは、彼女が理解するはずのないそれを享受しているように見えたからかもしれない。
「どうしたの、影二?」
 怪訝な顔で見つめ返してくる彼女の手を、影二は不意に生まれた衝動のままに掴んだ。掌は女のわりに硬い。銃器以外の扱いはあまり得意でないと言っていたか。確かに妙な癖があるようだと傷跡で分かった。今は溶けたチョコレートを塗りかけの爪化粧のようにまとっている、お世辞にも繊細とは言いがたい指先を唇に含むと、途端に例の――嗅覚を狂わされるような甘い香りが鼻から抜ける。
(これが、無償の善意の味か)
 影二は口の中で呟いた。
 だとすれば、酷く甘い。甘すぎる。
 口の中に残るねっとりとした唾液をどうにか呑みくだし視線を上げたところで、ユナの瞳とかち合った。荒れた海のように揺らめくその感情の正体は、やはり頭の中に思い描くこともできない空白の化け物と同じだ。考えてみてもいまだ像を結ばない。
「影二」
 掠れた声で彼女が呼んだ。気の利かないやつだと、影二は内心毒づいた。こういうときこそ普段のように騒ぎ立ててくれれば、気まずい思いをせずに済むものを。
「オレも……」
 ――知りたくなったのだ、その味を。
 というのは、我ながらあまりに馬鹿げているではないか?
「いや――気紛れだ、ただの。忘れろ」
 額を押さえて、言い直す。
「そっか。まあ、そうだよね」
 ユナはあっさり頷いた。濡れた指先を無意識に舐めようとしたところで一度動きを止めたのは、こちらの視線を訝ったからだろう。「指」と、指摘をしてやると初めて気付いたように、慌ててシャツの裾で拭った。




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