01

 幼い頃には夢想した。
 掃き溜めと呼んだ方がしっくりくるような路地裏で寝起きしていたあの頃。当たり前のように人から物を盗んでは命を繋ぎながら、いつかわたしの前にもニンジャ・ヒーローが現れて、このしみったれた現実からさらってくれるんじゃないかって。
 結局わたしをそこから連れ出してくれたのはヒーローじゃなくてハワード・コネクションの構成員だったわけだけれど、それでも――
 雨の日に誰かがあの路地裏に捨てたアメコミのリーフレットは、ずっとわたしの宝物だったんだ。

 ***

「ふぎゃああああ!」
 どうしてこんなことになったのかと考えながら、女は男の足の下でひたすらに悲鳴を上げていた。幸いだったのは背中を踏みつける足がヒール付きの靴ではなく底の平らな草履だったことか。とはいえ背骨が軋む程度に体重をかけられてしまえば痛くないはずはないのだ。手足をばたつかせながら、彼女はどうにか肩越しに相手を振り返って叫んだ。
「おのれ、ニンジャぁぁぁぁ……」
 彼――まさしく正真正銘の忍者である如月影二は、少し顎をそらして鼻で笑っただけだったが。

 その日、ユナ・N・オーエンは不運だった。まあ、それを言ってしまえば彼女はもっとずっと昔から不運だった。生まれた場所はどことも知れない。物心付いたときには貧困層の中でもまったく行くあてがない孤児たちがたむろするようなスラム街に捨てられていた。捨てられたという自覚もなく、気付いたときにはそこにいたと言った方が正しいのかもしれない。それでも彼女が自分の境遇を振り返るときに不幸とまで思わないのは、どこにいてもそれなりに世話を焼いてくれる人とは出会えたからだ。ぽつんと一人立っていた幼い彼女をストリートチルドレンたちは快くと言わないまでも迎え入れて、生きる術を教えた。盗みの手口。嘘の吐き方。そこらで調達できるような簡単な武器の使い方――もっといろいろあったような気もするし、なかったような気もする。
 最初の記憶からしてそうだったので、彼女は自分の名前すら知らないありさまだった。誰かがジェーン・ドゥ、つまり名無しと呼びはじめて長いことそれで通っていた。
 風向きが変わったのは、すっかり路地裏暮らしにも慣れた頃だ。ハワード・コネクションの構成員からメッセンジャーの仕事を引き受けた。
 もちろん相手はギース・ハワードなどといった大物ではなかったし、ビリー・カーンでもなかった。フィクションの世界ならチンピラAとでも記されて終わる、その程度の人物でしかない。一応の恩人と呼ぶべき彼は出会ってから一年も経った頃、なにかの事件に巻き込まれてあっさり死んだ。嘆く者はいなかった。組織からしてみれば取るに足らない存在だ。男は名前のない彼女のことを面白がって舎弟にした。
 あの掃き溜めを離れることに未練はなかった。いつだって、早くそこを離れたいと思っていたのだ。良い思い出がないわけでもなかったし、悪夢のような出来事はすべて忘れるようにもしていたが、路地裏のカビた空気だけは最後まで好きにはなれなかった。
 男が死んでから、彼女はなんとなく彼の代わりにおさまった。後釜と呼べるほどの肩書きを持たない、頭数で補うことにしか価値がない大勢の中の一人が入れ代わったところで、気に留める者もない。
 あの男のように死にたくはないなと思って、訓練は欠かさなかった。思えば――生にしがみついたところでどうなるという話でもないのだが――生き延びようとすることが、体に染みついていた。逃げ足の早さだけは一流だと褒められたことがあるような気もする。それでも名前も覚えていないような同僚が死ぬのを見るたび、いつか自分もああなると思わずにはいられなかった。狙撃の技術も学んだ。それなりに撃てるようになるにはいくらかの時間を要しはしたものの、何年かののちにも彼女はまだ生きていた。
 ビリー・カーンに顔を覚えられるようになったのがいつ頃だったのか、正確には覚えていない。分かるのは、一介のチンピラにしては長生きをしたということだ。あるいは周りが死にすぎたのか。いずれにせよ、幼い頃から変わらずジェーン・ドゥと呼ばれる彼女を憐れんで、ビリーはもう少し洒落た呼び名をくれた。
 ユナ・ナンシィ・オーエン。
 意味はそう変わらない。誰でもない者。名前は、誰もが生まれて最初に与えられるものだ。だから誰もが赤の他人の名付け親になることに、こんなにも躊躇ったのかもしれない。結局のところ、誰も、それ以上の名前を彼女に付けなかった。だとしても、名無しよりももう少し踏み込んだ呼び名をくれたビリーに彼女は感謝した。
 彼への敬愛も込めて、今はユナと名乗っている。

 ――それはともかく。
 そのビリー・カーンは現在、何人かの部下を連れて日本を訪れていた。ユナもその内の一人である。ルガール・バーンシュタインが開催したKOF――ザ・キング・オブ・ファイターズ――95’大会は主催者の死とともに幕を閉じた。優勝した日本チーム、およびルガールを倒した草薙京は帰国。それぞれの日常へ戻っていったかに思われたが、件の戦いで知られることとなったオロチの存在は新たな火種となっていまだ燻り続けている。ハワード・コネクションの総帥、ギース・ハワードもオロチの力に興味を抱いた者の一人だ。ビリーはオロチの秘密を探るため、目下関係者であると思われる草薙家の人々の行動を逐一報告するよう部下たちに命じた。
 その命令通りに草薙家を監視していたユナを襲ったのが、如月流の忍者だ。それから小一時間、交戦中と見栄を張る気にもなれないほど一方的に虐待されて今に至る。
(な、なぜ……)
 いや、心当たりがないわけではない。背中の上で意地悪く笑っている忍者――影二も八神庵とともに組んでKOF95’に参加した、ビリーの元チームメイトだ。こんな場所(つまりは草薙家の敷地内だ)で鉢合わせたということは、彼もまた草薙家とオロチの因縁について探っているに違いない。
 影二はユナの背中を踏みつけたまま、静かに、けれどいくらかは脅しを含んだ声音で訊ねてきた。
「ビリー・カーンはなにを企んでいる?」
「いや、それ言うと思う?」
 ミシィッ。
「あだだだだだ!」
 まさかこのまま背骨を踏み抜こうというわけでもないのだろうが。さすがに生命の危機を感じて、なにか武器になりそうなものはないかとあたりを見回す。落ちているのは砂利や小枝ばかりで、なにもできそうにない。使い慣れた拳銃の代わりに一応装備していた特殊警棒は、最初の襲撃で手の届かない場所に蹴り飛ばされてしまった。絶望的だ。
 半泣きで、ユナはぼやいた。
「うう、なんで銃刀法違反なんて法律があるんだ……おかしいだろ……政府がガンダムやゴジラを開発してる物騒な国なのに……」
「戯けたことを」
 ただの独り言も、冷たく否定される。
「え、嘘?!」
 出会い頭に石を投げつけられたときよりも(そう、突然石を投げつけられたのだ。木の上にいたところを、枝ごと打ち抜かれて地面に落とされた)いっそうの衝撃を受けて、ユナは肩越しに愕然と影二を見つめた。彼はあからさまに面倒くさそうな顔をしていたが、ユナの視線に気付くとかぶりを振った。
「現実と創作の区別も付かんのか」
「ニンジャはいるじゃん!」
「一緒にするな」
「日本の創作って分かりにくいんだよ……だってサムライは創作じゃないでしょ。ニンジャもいるでしょ。なのにガンダムやゴジラはいないって、わけ分かんない……」
 ぶつぶつ呟くユナの背中を踏みつけたまま、影二は嘆息した。
「よりにもよってこれが手下とは。ビリーの正気を疑わずにはおれんな。大丈夫か、あいつ」
「わたしが大丈夫じゃない。ビリー様にめちゃくちゃ怒られるし、背中も痛い」
「知るか」
「そうなんだろうけどさ。でも、そろそろ足をどけてくれてもいいんじゃないかって思うんだよ。わたし、まだなにも悪いことしてないのに……」
 まあ、それも影二にしてみれば関係ないことではあるのだろう。もう知るかの一言さえなく、彼は鼻を鳴らしただけだった。
「まったくこれでは埒が明かん」
「諦めてくれるの?」
「いや、本人に直接聞く」
 そう答えるが早いか、ユナが腰に提げていたホルダーから無線機を取り上げている。
「あっ」
「よお、ビリー。久しいな」
 ――終わった。これは、完全に終わった。
 と、思う暇もない。やたらと軽い影二の挨拶に、無線機からは地獄の底から響くような上司の声が聞こえてきたのだった。

 ***

「ユナ・ナンシィ・オーエン」
「はい!」
 影二の足の下、思わず背筋がぴんと伸びる。
 ああ、怒っている。彼は、ものすごく怒っている。ビリー・カーンがフルネーム(と言ってもいいのだろうか、偽名であっても)でユナを呼ぶのは、大抵がそういうときだった。原因の八割くらいは(ビリー曰く)ユナの無用なお喋りと失言が原因ではあったものの、この上司が瞬間湯沸かし器並みに沸騰しやすいことをユナは身をもって知っていた。
「お前、逃げ足自慢が如月にあっさり捕まってんじゃねえよ!」
 ビリーの指摘はもっともだ。というか、もっともだと言わざるをえないというか、もっともだと納得するしかないというか。客観的に見てその他大勢、あるいは十把一絡げ、殺陣の斬られ役相当に分類されるような自分に上司とチームを組むような規格外忍者の相手をしろというのは酷じゃないかとか、そういった言い訳を一言でも口にすればいっそう彼を怒らせることは目に見えていた。あとはもう頭を地面にこすりつけ――と言っても、小一時間前から潰れた蛙のように地面に押しつけられて、あとはもう地中にめり込んでみせるくらいしか誠意の見せようもなかったが――とにかく謝るしかない。
「申し開きのしようもありません、ハイ。なんて言ったらいいか、とにかく申し訳なく思ってはいるので、そこのところなにとぞ……減給だけは……減給だけは……」
 それを見て憐れんだというわけでもないのだろうが(なにしろ彼の足はまだ、ユナの背中を踏みつけたままである)会話に、影二が割って入った。
「取り込み中のところすまんが、ビリー」
「ああ――」
「そう煩わしそうな声を出すな。元チームメイトのよしみだろう」
「利害の一致以外で繋がった覚えはねえな」
 ビリーの呆れ声に、影二は肩をすくめた。
「まあ、それもそうか」
「で、なんの用だよ」
「それが分からぬような阿呆ではないと思っていたが」
「一応、形式ってやつが必要なんだろ。この国じゃ」
「なるほど」
 頷き――会話の隙を窺っていたこちらへの牽制か――足に力を込める。
「では、こちらから本題に入るとしよう。単刀直入に言う。貴様の持っている情報を明かせ、ビリー。オロチと草薙の因縁に関して、ある程度は掴んでいるのだろう?」
 訊ねる影二に、ビリーは無線の向こうで鼻を鳴らしたようだった。
「ハッ、教えてやる理由がねえな」
「一応言っておくが、貴様の手下が人質だ」
「好きにしろ。ガキじゃねえんだから、自分のケツは自分で拭けと伝えておけ」
 それを聞くと、影二は苦く笑った。
「薄情者め」
「知らなかったのか?」
「いいや」
「だったら話はこれで終わりだ。じゃあな」
 それきりビリーの声は途切れ、あとはザザ……とノイズが聞こえるのみである。
「だ、そうだ」
 無線機を投げ返されて、ユナは我に返った。
「は」
「自分のケツは自分で拭け、だと」
「いや、聞こえたよ。聞こえてたけど……」
 にわかには信じられず、うめく。
 ――どうしろと。
 ちらりと影二を見上げる。彼も交渉が決裂したあとのことは決めていなかったのか、眉間に皺を寄せている。ユナにもう用はないが、このままあっさり解放するのもなんとなく間が抜けている――とでも考えているような顔だ。
「あの、さ。提案なんだけど」
 遠慮がちに声をかける。影二はじろりと視線を返してきた。
「言ってみろ」
「手を組むってのは、どうかな。手に入った情報はわたしももちろんビリー様に報告させてもらうけど、オロチの件が片付くまでは影二の指示で動くってことで」
「貴様が裏切らないという保証は?」
「メリットがないよね。半端なところで裏切ってもビリー様と影二の目的が同じ以上はまた鉢合わせするし、そうしたら今度こそ背中を踏まれるくらいじゃ済まないだろうってことも分かるし。そんなムボーするほど、わたしはバカじゃない。寝首を掻くか掻かないかって話なら、物理的に無理かなあ」
「一理ある――貴様がバカか、そうでないかは別として」
 信用はしていない顔だ。けれど影二にとっても、落としどころとしては上等のはずだった。彼は脅しのつもりなのかユナの首筋すれすれに小刀を振り下ろしてざくりと地面に突き刺すと、背中からようやく足をどけた。
「その提案、呑んでやる」
「ありがと」
 冷たい鋼の感触にひやりとしながら、体を起こす。同じ体勢を強いられていたせいで、背中は言うまでもなくあちこち痛んだ。元凶の忍者は素知らぬ顔で、もう歩き出している。
「どこに行くの?」
 訊ねるユナに、影二は言った。
「貴様の相手をしていたせいで、草薙京を見失った。追うぞ」
「それ、わたしの台詞じゃないのかなあ……」
「なにか言ったか」
「いや、貴様ってのはやめにしないかなって」
 愛想笑いで誤魔化して、影二の後を追う。
 影二は足を止めると、振り返ってきた。隣に並ぶのを待ってくれているというわけでもないのだろうが、そうと錯覚しかねない距離ではある。ユナはなんとなくたじろいで、彼の一歩手前で踏みとどまった。強い陽射しの下で、忍び装束の鮮やかな青が目に痛いほど眩しい。まるで――
(子供の頃にマンガで見た、ニンジャ・ヒーローみたいだな)
 ふっと胸を掠めていった郷愁に、目を伏せる。
 と、
「ユナ」
「え」
 不意に呼ばれて、ユナは呼吸を止めた。意味のある名前ではないが、素直に呼んでもらえると期待していなかっただけに意表を突かれた気分だった。影二の爪先あたりに向けていた視線を、またのろのろと上げる。
 目が合うと、影二はやや不満そうに言った。
「ユナ・ナンシィ・オーエン――と、ビリーのやつは言っていたが。長い」
「ああ、うん、そうだね。ユナでいい」
「ならば……」
 影二がすっと左手を差し出してくる。
 それがなにを意味するのか、たっぷりと十秒考えて――
「握手だ。知らんのか」
「し、知ってるよ」
 眉をひそめる影二に、ユナは慌てて言い返した。もう一度その手を見つめ、恐る恐る触れてみる。それから遅れて気付いたのは利き手が封じられてしまったなということだった。反射的に手を引こうとすると、影二は覆面の下で唇をにやりとつり上げた。
「迂闊者め。だが、安心しろ」
 掴んだ手に込められた力は、存外に優しい。
「しばらくは同志だ、ユナ」
「ああ、うん。よろしく、影二」
 酷く落ち着かない心地で、ユナはどうにか呟いた。
 どこまでもありふれている、それがつまりは始まりだった。




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