ロシアンブルーの瞳に

 普通の人間は――普通の定義も個人によって異なろうが――家族という絆を持ち、ともに生活していくらしい。それを知ったのはいつだったか。忍びとしてようやく一人前になり、里の外で任に就くようになった頃だったような覚えがある。
 それがどういったものか想像するのは難しかった。物心付かぬ幼子の時分から育ててくれた前総帥は紛れもなく家族であろうが、手放しで父と呼ぶのは躊躇われた。彼にも亡き我が子がいる。生きていればちょうど影二と同じ年頃だったというから、その胸中たるや察してあまりある――代わりと自虐するつもりはないものの、その視線が自分を通り越して別の誰かを見つめているように感じたことがあるのも事実だ。

 だからというわけでもないが。
 夕食の片付けをするユナの後ろ姿を見ていて不意に錯覚してしまった。如月流の忍装束と同じ鮮やかな青のエプロンは、彼女が昨日町の小さな手芸屋で見つけて買ってきたものだ。
「お揃いだね」
 などと言って着ようとしたユナからそれを取り上げ、水通しをしてやった。思えば自分にも浮かれていたようなところはあったのかもしれない。乾いたのが今日の昼過ぎで、真新しいエプロンに喜んだ彼女はせっかくの非番にも出かけず半日家事をしていたようだ。当番制にしていた食器洗いまで取られて、影二としては多少手持ちぶさたを感じないでもない。
(まるで新妻だな)
 鼻歌交じりに皿を片付けていくユナを眺めながら、口の中で呟く。
 新妻。妻。酷く据わりの悪い単語だ。落ち着くべき関係に落ち着いたとはいえ、ユナとは勿論その先を見据えた話はしていない。無意識に避けてしまうのは責任云々というより、本物の家族を知らないことが一番の理由かもしれない。なにせ縁を結んでみたところで、自分にはそれが正しい形かも分からないのだ。
「影二。えーいじ!」
 ユナの声で、影二ははっと我に返った。
 思いのほか考え込んでしまっていたらしい。ユナの顔が目の前にある。触れれば口付けてしまいそうなほどの無遠慮な距離に少なからず狼狽して、影二は息を呑み込んだ。蛍光灯の下でなおきらきら輝く瞳が、覗き込んでくる。凍土と同じ色の青は――ああ、これだけは認めねばなるまい――いつだって美しい。
 目蓋に触れると、彼女はくすぐったそうに身じろぎした。
「どうしたの? 疲れてる?」
「いや」
 その背中に知るはずのないものを見てしまったのだと言ってやるのも癪なので、否定に留める。こういうとき、つい意固地になってしまうのは影二の性分だった。一方のユナはいつものように気に留めなかったようで、ふうんとひとつ頷いてすぐに話題を変えた。
「ところで……今日、なんの日か知ってる?」
「今日?」
 二月十四日。
 呟いてみるまでもなく、思い当たるイベントはあったが。
 目が合うと、ユナはにんまり目を細めた。
「ハッピーバレンタイン!」
 悪戯っぽい笑みとともに背中に隠していた手を突き出してくる。
「迷ったんだよ。影二、洋菓子って好きじゃないし……だから和菓子とか……あと、いっそお菓子じゃない方がいいのかなあとか……」
 掌の上には小さな箱がひとつ。
「でもさ、こういうのって形も大事かなって。だから一粒だけ……っていうか、ひとつしか成功しなかったんだけど。コニャック入りのチョコレート。駄目かな?」
 言ううちに不安になったのかもしれない。語尾を小さくして訊ねてくる彼女に、影二は少しだけ笑った。箱の中に収まったチョコの塊を指でつまんで、口の中に放り込む。顔をしかめたくなるような甘さが舌に触れたのはほんの一瞬で、すぐに華やかな洋酒の味が広がった。
「ひ、ひとくち……」
「惜しんで食べるようなものでもあるまい」
「それはソーだけど」
「悪くはなかった」
「……よかった、って言えばいいのかな」
 複雑そうに呟きながら、けれど深く考えるのはやめたようだ。まあいいやと不満をあっさり放り投げて、エプロンのポケットからメッセージカードを一枚取り出した。
「これも一緒にって思ってたんだけど、なんかタイミングずれちゃったね」
「そういうものは先に渡さぬか」
「いやだって、恥ずかしいじゃん?」
 なぜかもぞもぞしているユナの手から、カードを取り上げる。往生際悪く唸っている彼女を無視して視線を落とせば、そこには、
 ――I LOVE YOU!
 と、一言。
 ひねりもなにもないが、かえってユナらしい。
「せめて、月が綺麗だ程度の洒落っ気は欲しいところだが」
 本気でそう思ったというよりは面映ゆさ半分で告げる。もっとも、ユナには伝わらなかったようだ――思えば当然の話ではある。きょとんと首を傾げ、見当外れに訊ねてきた。
「影二、月が見たいの?」
 その問いかけに、そうではないと答えたものか迷いつつ。そうしなかったのは、酒気に当てられたせいか。ほんのひと舐め程度のコニャックではあるが。
「そうだな」
 お前と二人、朝まで。
 と付け加えたのは、我ながら気取りすぎたかもしれない。
 ユナは驚いたように目を大きくしていたが、ややあって照れたように笑った。
「えへ、えへへ。嬉しいな」
「なんだ、その顔は」
「こういうとき、日本人は死んでもいいわって返すんでしょ? ワビサビってやつ。ほんとは知ってたり、なんて!」
 爪先立ちの彼女は音もなく影二の頬に口付けると、一瞬で離れて甘く喉を鳴らした。
「熱いコーヒー、水筒に入れてくるよ! 朝までたくさんお喋りしようね!」
 ぱたぱたとキッチンに引き返していく。その後ろ姿と、揺れるエプロンの紐を見つめながら、影二は途方に暮れた心地で頬を押さえた。



END

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